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里見橋台の正体 [廃線]

廃線跡シリーズⅦ.jpg故宮脇俊三氏の監修によるJTBブックス「鉄道配線跡を歩くⅦ」
これに里見軌道が紹介されていた。
利根川の支流、烏川上流の、上里見~保古里~現在の室田発電所辺りの4kmを人力で押していた。旧榛名町で、今は市に合併されている。
運行目的は安山岩、里見石の搬送。伝承では、対岸の湯殿山の下にある室田発電所の建設資材の搬送や、k軌道跡の地下にある地下坑の建設である。
作業員は乗車していたとは思うが、一般の旅客営業はしていなかった。



里見軌道地図.jpg
だがその全貌は謎に包まれている。
地元でも知られていない。合併前の里見村史、榛名町資料にある里見軌道の頁は僅かなもので、大正三年、軌道敷設特許願の頁に、「里見村ハ往古ヨリ里見石ト称スル石材ヲ産出シテ石量豊富殆ド無尽蔵ニシテ・・・」
大正四年、里見軌道路線実地調査複令には、「里見軌道ハ信越線飯塚駅前ニ起リ国有線ニ沿フテ烏川ヲ渡リ其ノ右岸ナル仮定県道上ヲ走ルコト約八哩ニシテ県道ヲ離レ専用軌道ヲ以テ進ムコト約三哩里見村ニ達スル延長十一哩軌間二呎六吋ノ軌道ナリ・・・」
二呎六吋は762mmの軌道幅。そして大正四年の里見軌道特許状の項、命令書第三条には、「原動力ハ人力トス・・・」

幾つかの史料から時系列で並べてみると、
大正3年(1914年)8月、 軌道敷設特許出願。
大正4年(1915年)5月、 敷設特許取得。
大正5年(1916年)11月、会社設立(里見軌道株式会社?)。
大正9年(1920年)2月、 上州石材設立(役員は兼務と推測される。実質の運営権はこの会社?)
大正10年(1921年)8月、軌道工事完成、資材運送を開始。

「鉄道配線跡を歩くⅦ」には、「書類上の開業日、廃止日は、実際の運行とは異なるものであったらしい」とあって、書類上の開業日は昭和6年(1931年)7月、営業廃止が翌7年(1932年)4月だという。
書類上での営業期間は僅か数ヶ月でしかない。町史とかなりのズレがある。開業届も廃止届も相当に遅れて出したのだろうか。
町史と「鉄道配線跡を歩くⅦ」の記述を合算すると、大正10年~昭和7年で、合計11年か12年の運行営業になる。
どれが本当なのだろう。

各方面の研究者によると、動力が人力、手押しだったのは間違いない。開業区間は4km程度なので、急な坂とか無ければ可能だろうか。

その里見軌道の起点、里見町の春日神社です。
ここが起点?.jpg

私がこの里見軌道に着目したのは、烏川上流で稼働していた軌道ではなく、市内の里見という地にある三つの橋台です。
24年6月だったか、倉渕温泉の帰途、406号線から迂回しようとして里道に踏み込んだら號五第(第五号)橋台を発見したのが発端。
現在残る橋台は三つ。いずれも明治の建造物です。

號二第(第二号)明治43年5月
第二橋台.jpg
號二第.jpg明治43年5月.jpg
№2.jpg市内から国道406号線で草津方面へ走ると、「温石」という蕎麦屋さんを過ぎて里見川を渡った橋の袂に、川に沿った細い道があってそこを上がります。
その道は轍の跡もあるので、軽自動車ならギリギリ入れそうな路幅だが、切り返す場所が全くなかった。私は麓に停めて徒歩で歩いた。夏場は木々が倒れてたりするので今は殆ど廃道状態です。
八幡霊園の駐車場に停めて、墓地の中を北に歩けばフェンス越しに見えます。



號五第(第五号)明治43年4月
號二第(第二号)から国道に戻って先の信号機を左折します。
九十九折のカーヴを上がると右手にあります。現在は片側しか残っていません。
付近は建売住宅地になっています。
第五橋台.jpg
號五第.jpg明治43年4月.jpg

號六第(第六号)明治42年5月
第六橋台.jpg
號六第.jpg明治42年5月.jpg
№6.jpg號六第(第六号)は更に西に向かって右手にミラーのある細い路地を左折するのですが、道幅が狭く、橋台の箇所で直角に曲がるのでセダン車では絶対に無理です。
おそらく地元の果樹園を営む方の軽トラックしか走らない道ではないだろうか。
軽自動車ならギリギリ可です。
私は坂を上がったところのシャッター果樹園に停めて最後の見学をした。




里見橋台MAP.jpg
この三橋台を線で結ぶと、起点予定地だった飯塚駅(現在の北高崎)や、接続駅の第二候補駅だった群馬八幡駅に結びつくので、ひょっとしてこの橋台は軌道の延伸、未成線かと思ったのである。
だがそうなると、烏川上流で稼働していた里見軌道の開業時期と、これら橋台の建造時期が合わないのです。

結論を言うと、どうもこの橋台のある辺りまでは軌道は延伸してなかったようです。
地元の人で3人ほど聞き取ったところ、水道管を載せた橋台という証言が2人いた。
「この辺りは農道だったの。土が崩れないようにする為のものでは?」 (五号橋台近くのオバさん)
「鉄道は伸びて来るって話はあったよ。でも誰も利用しないよここに敷いたってさぁ(笑)」 (地元のTさん)
「そういう話があって喜んだ人はいたの。でも中止になっちゃって」 (果樹園のオバさん)
伸びてくる、そういう話はあった、というお二人の証言は、上州電気鉄道未成線のような気がする。
http://funayama-shika.blog.so-net.ne.jp/2012-08-25-2

私の中では里見橋台と里見軌道は下の2記事で完結したつもりだったが・・・
http://funayama-shika.blog.so-net.ne.jp/2012-08-26
http://funayama-shika-2.blog.so-net.ne.jp/2013-01-22
・・・また引き戻された。
「埼玉発大人の小探検」管理人のたからった氏がコメントを下さった。氏は上流のホンモノの里見軌道跡を走破して紹介されています。
(氏の探検Blogです。http://blogs.yahoo.co.jp/takaratta1152
それと、氏とは別に、私が市の図書館へ乗附城と別のネタを探しにいったら、最初に市の水道史という資料が目にとまったこと。
水道史?
里見橋台が水道管を渡らせた橋なら、その裏付けが取れるのではないか。
視点を変えて調べてみたら、おおよそこの橋台の正体がわかったのです。

市の市制前の人口は享和元年(1801年)に戸数1369戸、人口6516人だったのが、約70年後の明治4年(1873年)に人口20524人と3倍以上に激増し、もともと農業用水路兼飲料水だった水路が汚染され、飲料や炊飯に適しなくなってきたんだと。
水道管や水道施設を望む声が高まったのだが、富国強兵の当時は徴兵令のような軍部の強い公布や国の施行は共同役場が進めるが、水道敷設という地方自治体での事業だと予算が捻出できなかったそうです。各町内の独自性が強かった時代で、町が一つの自治体となったのは明治半ば近くなってからだとか。
それでも明治19年、人家が密集していた本町、連雀町、田町、鞘町、新町、三つの紺屋町、九蔵町他、計15の町で簡易水道の議がまとまり明治20年に着工、翌21年に竣工した。取水場所は飯塚村の長野堰支流新井堰というが何処だかよくわからない。

これらの建設費や維持費は15町も負担しているが、当時の市には総数で43も町があったのに給水が開始されたのはそのうち15町でしかない。他の町からも当然、水道敷設の要望もでてきた。
だが取水した長野堰は農業灌漑用水も兼ねてたらしく、降雨量によっては水門を閉めたり、修繕等による断水が度々あったそうです。困ったことに1ヶ月断水したことも。

市の城内に陸軍歩兵第十五聯隊が置かれたが、聯隊から腸チフスが発生して衛星上問題になった。水が悪くては聯隊を維持できない。県庁が前橋に置かれた上に、聯隊まで去ってしまっては街の存亡に関わる。
(県庁問題についてはこの項では触れません)
町に市制が施行され、もっと規模の大きい水道を建設できないか、人口が5万10万と増加しても給水できるような水源を探した。
新たな水源候補地は三箇所。
①群馬県片岡村大字清水観音山渓谷。(これは伊香保温泉近くの榛名山の水か。)
②碓井郡里美村大字上里見字上山町春日堰。(里見軌道と並行して流れる烏川)
③碓井郡磯部村大字中磯部村諏訪社裏手。(ちょっと場所がわからない。碓井川の上流だろうか。)
このうち②が採用される。烏川の上流です。これが春日堰といって、実際に運行されてた里見軌道の起点地、春日神社の隣にある。
そこの水を県の衛生課が採取したところ、水質良好で飲料に適するものと認定された。
現在の春日堰2.jpg
現在の春日堰1.jpg
釣りを楽しむ人々.jpg
資料には②の「烏川上流春日堰で取水し八幡村大字剣崎に送水す」とある。
この剣崎に送水とは導水管をもって浄水場に送水するの意で、送水先は剣崎浄水場とあった。

剣崎という地は今でもある。剣崎交差点近くにはヒロさんが大好きな納豆ピザ、納豆ドリアの店「多伊夢」があるのだがそれは余談。
緑の入口2.jpg納豆ピザ.jpg納豆ドリア.jpg
剣崎浄水場は今でもある。県道を挟んで若田浄水場と二つあって、若田浄水場は二号橋台が残る八幡霊園に隣接しており、敷地内には市の水道記念館がある。なので当時の水道管が、現在も残る里見橋台を渡ってたのではないだろうか。

明治34年9月には、水源地でもあり、導水管が敷設される里見村の村長と仮契約を締結している。収用を要する土地は上中下の里見村から八幡村、豊岡村他が載っていた。
大きい縮尺地図で見ると、上里見村にある取水地の春日堰と、そのすぐ隣にある軌道起点跡の春日神社から烏川沿いに三橋台が残る東へなぞると、導水道ルートと里見軌道計画線が概ね重なるので、そっち方面のロマンになっちゃったというわけです。
春日堰~剣崎浄水場.jpg
里見軌道地図.jpg
築造物一式.jpg資料にはこの事業に用いた資材や作業員数も列挙されてたがそれは割愛します。
一つだけ。問題の橋台についてですが、導水管築造物の項に、もしやこれではないか?というのがあった。
擁壁、溜井、土工延長、暗渠、サイフォン、トンネル、開渠、人孔、トンネル人孔、接合井、サイフォン接合井、排水土管布設、杭、取水場の石垣や木戸門や竹柵(フェンスのことか)とかいろいろあって、最後の方に、
河川横断架橋壱ヶ所、里道横断架橋六ヶ所とあった。
これが現在も残る第ニ号、五号、六号の橋台なのはほぼ間違いないと思われます。

上水道は明治43年に完成する。
橋台に刻まれた年月は明治42年か43年なので一致する。
現在は水道管は渡っていないが、號二第(第二号)橋台には切断されて断面をセメントで蓋された管の残骸が載っている。
水道管?.jpg
水道管と蓋.jpg
資料には、現役当時の水道管の写真もあった。
ミニョコン(アマゾンに生息する超巨大ミミズのUMA)のような水道管が地を這っている。
導水管-1.jpg導水管-2.jpg
先日、若田浄水場内の水道記念館に行ったのだが、残念ながら橋台の資料、写真の展示はなかった。年表が掲げてあって、明治43年に完成とだけあった。なので里見の三つの橋台たちは水道管を渡らせたものでほぼ間違いない。いっくら鉄道史を探してもみつからないわけです。
水道記念館.jpg明治43年.jpg
ではいつ取り外されたのか。市の人口増加の更なる過程で近代水道に整備拡張され、いつの日か明治の旧水道管は取り外され、橋台だけが残ったのでしょう。

私は水道管に鉄路の夢を思い描いていたのだが、まぁいい夢ではあった。では烏川上流で稼働していたホンモノの里見軌道跡ってのはどうなっているのだろうか。
廃線跡.jpg
コメント(6) 

コメント 6

ナワ~ルド@峠おやじ

そっかぁ!廃鉄やなかったのね。
でも私ゃダムとか水路も好きでしたから楽しませてもらいました。

いま女房から貰ったインフルエンザを発症してお休み中です。
こんなことしてていいのか?

by ナワ~ルド@峠おやじ (2013-04-04 00:27) 

似非師匠

史家さんのいつもの丹念な取材、見習いたいものです。
前の里見軌道に続き、楽しませていただきました。
by 似非師匠 (2013-04-04 03:03) 

船山史家

ナワさん。
インフルエンザはそろそろ峠を越えましたか。ウチの社は予防接種が義務付けられてるので発症者は少ないんですよ。
廃鉄じゃなかったんです。鉄路も水道も線だから、廃線ということで。(^^;
引き上げる前、最後に図書館に行って、最初に目についたのが水道史でした。その資料の背表紙が、「私を見なさい」って訴えてましたから。
上州滞在最後の方になったら、この橋台たちが可愛くてしょーがなくなりました。
お大事にね。
by 船山史家 (2013-04-06 06:04) 

船山史家

似非師匠さんどーもです。
この散策を最後に上州から撤収しました。今は自然とは無縁、コンクリートジャングルの中にいます。味気ないです。業務の合間、移動間にあれこれ見てた1年でした。
あっ、小栗上野介も取材は済んでいます。終焉の地、権田というのですが、そこは平日に行ったので誰もいなかった。
先日、上野駅で降りたら、「ようこそ上野へ」っていうポスターがあったんですが、ようこそウエノと読めず、ようこそコウヅケって読んでしまった。
またよろしくお願いしますね。
by 船山史家 (2013-04-06 06:07) 

熊猫

ジャンさん。
おはようございます。

仮説をたてて、現地調査のフィールドワークを行う。まさにそんな記事ですね。素晴らしいです。歴史に埋もれてしまいそうな小さな事実をあぶり出す。誰もが知っている事実でないというのがいいです。
自分もジャンさんのようにありたいものです。
by 熊猫 (2019-06-09 11:21) 

船山史家

BBB熊猫さんこんにちは。
お誉めいただき恐縮です。普段、飲み食い記事や自分の周囲で起きた人間ドラマを書いてると、たまにこういう紀行記事を書きたくなるのです。
でも時間がかかります。現地踏査、できれば誰かに聴き取りすることで記事に厚みと信頼性が加わります。そして史料調査で裏付けを取ります。
ラーメン屋の記事が一話完結でいちばん簡単なんですけどね。
でもこの重厚な橋台、明治期の建造物ということで一見の価値はあると思うのですが。
by 船山史家 (2019-06-09 15:31) 

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