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もう一つの白虎士中二番隊 [会津]

副題としては、最強少年兵、白虎寄合隊といったところです。

白虎隊旗.jpg白虎隊の旗印です。
TVや漫画でよく「白虎隊」ってそのまんまズバリ書きなぐった旗指物が映る時があるが、あれは全くのマチガイ。もうちょっと考証をちゃんとして欲しいね。
この旗印を見ると、身分別に三つの隊に分かれている。士中、寄合、足軽です。この三つは別々の隊に分かれ、混合では編成されない。
それは当時の封建制度に基づく身分階級が厳しく区別されていたから。
士中と寄合は、一番隊、二番隊と二小隊あった。



会津藩だけではないが、この時代は何処の藩でも上士、中士、軽輩、身分の差が大きかった。
日新館では上士の子弟が学ぶ。寄合(中士)や足軽が学ぶのは別の学校である。当時の封建制度では少年といえども下士の子弟が上士の子弟と道で出会えば道を譲ったり頭を下げたり、土下座で挨拶しなければならないほどの身分差があったのだ。
白虎士中一番隊、二番隊は容保公の傍に置かれ、実戦では越後口に派遣された寄合隊に先んじられ、それを悔しがった。それでいて寄合、足軽との合同演習を嫌ったという。
お互いの交流は全くない。
(二本松少年隊は少年同士は隔てがなかったらしい。)

最初に戦闘に出たのは、白虎足軽隊の誰かか、寄合隊です。ただ、足軽隊は隊として行動していないようで諸隊に付けられた可能性が高い。だから記録に殆ど残っていない。
寄合隊は二隊あって記録が残っている。7月12日に越後口に出発。初戦は一番隊が8月14日、二番隊が8月10日、9月22日の降伏まで寄合隊は城外で戦争に明け暮れる日々が続く。その間、若松城内に戻れという命令は出なかったようである。
何故だろうか。

幕末では戦闘は既に遠い過去のものになっている。
会津藩は京都守護職で砲煙の中を掻い潜った。だがそれは大坂の陣や島原の乱以降の泰平の時がゆったり流れてから久々の戦闘だった。京に滞在した会津藩兵は蛤御門や鳥羽伏見で実戦を経験したが、それより先に薩長二藩は諸外国と交戦済みだし、長州藩に至っては蛤御門の後で征長軍を撃退している。
それに対して会津国許、ましてや少年に至っては、戦闘というものは忘れ去られていた筈である。講談や物語でしかなかったのだ。

二本松少年隊の生存者、水野進という人が大正六年に語った談話では、出陣が決まった時、
『銃ヲ放リ上ゲ抱キ合ッテ出陣ヲ喜ビ、ソノ夜ハ両親カラ門出ヲ祝ッテ貰イ、夜半過ギテモ興奮シテ眠レズ』
まるで選抜されて試合に臨む学生の光景である。
白虎士中一番隊の生存者、永岡清治という人の談話では、越後口から帰還した時(戦闘には及んでいない)、『白虎隊士ハ十中ノ九ハ初メテ旅舎ニ淹留シタルコトナレバ奇談笑談限リナク笑イ興ジテ・・・』
戦闘にはならなかったとはいえこれでは修学旅行の土産話気分である。外泊というものがそれまでなかったのであろう。
永岡清治が所属した士中一番隊は越後口では戦闘になっていない。甲賀町口門の市街戦が初戦である。生存者は何とか城内に帰城した。だが越後口に寄合隊の少年たちを置いて来たのである。

白虎士中二番隊は会津戦争悲劇の象徴だが、飯盛山で自刃したのは戸ノ口原初戦翌日である。士中隊は一番隊、二番隊とも、実際の城外戦闘は2日間でしかないのである。
二番隊は隊長の日向内記がどっかに行っちゃって少年たちだけが山中を彷徨し、飯盛山の悲劇に至る者、農民に匿われて生き残る者、何とか城内に帰還できた者とバラバラに動いた。そこに隊の規律は全く見られない。
それでもからくも城内に帰還した一番、二番隊は合併して再編成され、開城まで籠城戦に参加することになる。

知らない人の中には、白虎隊といえば飯盛山で自刃した少年だけという誤認がまだ残っているようです。上士、寄合、足軽と別れていたのが知られていない。
自刃した少年隊士も気の毒だが彼らは上士の子供らなので、学者さんの中にはこういう事を訴える人もいます。長いのでちょっと訳しますが、
「自刃した隊士が上士だから顕彰に値するというきらいはないか。寄合(中士)や足軽だったら、自刃ではなく一人でも多く敵を倒すべしといった言動にならなかっただろうか」
「幕藩体制は身分制だから上士を手厚く扱うのは仕方がない。だが寄合や足軽にも戦死者はいる。取り上げられるのが上士に偏りがちである」

越後戦線に置いてかれた白虎寄合隊はどういう過程、戦績をたどったのか。
会津若松城の開城は9月22日だが、7月18日から開城まで二か月間も城外の戦場にいた。寄合隊も一番隊二番隊とあって、一番隊は98名。二番隊は62名。彼らは士中白虎隊に出動命令が出る前から越後戦線の砲煙の中にいた。

では何故、彼ら寄合隊だけ先んじて戦闘命令が出たのか。
理由は簡単、冒頭に述べた身分差です。端っから使い捨ての戦闘員扱いだった。
寄合隊より身分の高い士中白虎隊も戦意は旺盛だが、彼らは上士の子弟なので最初は容保公の御側に置かれたのは当時の身分社会だから仕方がないともいえる。まさか容保公の周囲を寄合隊や足軽隊で固めるわけにはいかないだろう。おそらく8月22日の戸ノ口出動までは、容保公の周囲にいた士中白虎隊は近衛兵、儀仗兵のような位置づけではなかっただろうか。
嫌な推測だが、上士子弟は城内に入れ、中士軽輩は城外で敵を喰いとめろ、城内への補給路線を確保しろというスタンスではなかったか。

白虎寄合隊は7月12日に出動命令が出て15日に越後口の国境戦線へ出動する。少年隊単独ではない。幾つかの諸隊とともにです。。
八重の旦那、尚之助は、「まだ戦場に出る年ではない」なんて言ってたがトンデモナイ。尚之助は常識論を口に出して八重を安心させただけだが現実は違っている。

最初の戦闘は二番隊で8月10日、阿賀野川左岸の左取村の胸壁で新政府軍と遭遇し、彼らは実戦と武器の性能差に愕然とした筈である。杉浦という砲兵隊長の手記に、『砲兵、白虎ノ両隊、佐取西胸壁ヲ退キ、村先ニテ応戦・・・(省略)』
14日か15日まで戦線が膠着し、砲撃や銃撃の応酬に終始したが、この間に前にも書いたが星勇八(16歳、寄合隊最初の戦死者)、小松八太郎(16歳)、百瀬外次郎(17歳)、3名の戦死者が出ている。
(現在の石間、左取は、磐越西線の咲花駅近郊、阿賀野市と五泉市の境辺りです。)
石間村と左取村.jpg

一番隊の初戦は8月14日、赤谷というところで戦闘が始まった。赤谷戦線諸隊の標的は新政府軍に寝返った新発田藩だったのだが少年兵を加えず赤谷の守備を言い付けられたという。さすがに年齢的体力的に、兵力としては如何なものかという懸念があったようである。
だがその8月14日、赤谷戦線は豪雨で冷え込んだ。新政府軍は火を焚いて野営をしていたが、その火を見つけた会津藩の遊撃隊が斬り込んで攻勢する。緒戦は会津藩兵の斬り込みで優勢だったのだが、一旦引いた新政府軍に元込めライフル銃スナイドルを所持する最強部隊が現れる。
長州藩奇兵隊!!
形勢が逆転した。会津藩の火縄銃は豪雨で全く使い物にならなかったのである。諸隊は退却するが、そこへ後方にいた白虎寄合隊が健気にも救援に駆けつける。子供だからとも言ってられなくなったようである。
だがこの時も一番隊で最初の戦死者が出ている。佐々木新六郎(16歳)、既に掲載したが父子揃ってこの地で戦死した。

白虎寄合隊は一番隊と二番隊とも麒麟山温泉のある津川まで引いてそこで合流し、諸隊とともに阿賀野川に沿った狭隘な街道に伏兵を置いてゲリラ戦を展開した。川の増水もあって膠着状態になり小戦闘が繰り返される。
だが、8月21日に母成峠を突破された敗報が届き、越後口の防衛戦線に撤退命令が出され、津川から若松城下への退却戦で幾人かの少年兵が戦死した。この撤退戦はかなりキツかったらしく、もともと兵力が少ないので彼ら少年兵も嫌がおうにも実戦に立たされ、撃ちながら退き、押しては引きを繰り返し、野山に伏し、泥濘にまみれ、砲煙、硝煙だらけになって揉まれ鍛えられ、幾人かが戦死し、生存者の少年兵たちは急速に戦力になっていかざるを得なかった。

越後戦線防衛軍は会津盆地の平野部入口まで撤退した。そこへ家老萱野権兵衛(演:柳沢慎吾さん)が峻烈な命令を下す。
「城中は各方面からの引き上げ兵で足りる。越後口防衛軍は城外にとどまり、新政府軍に只見川を渡河させるな」というもの。
萱野は会津を追われた家老の誰かと違って城外戦線に居座り、戦後は責任を取って自刃した家老です。
少年兵たちは「城に帰るな」と言われたのである。

白虎寄合隊は新政府軍が渡河してくると踏んだ越後街道、船渡の防衛を命じられた。8月27日から阿賀野川を挟んで砲撃戦が続き、およそ10日に渡って食い止めるが、ジレた新政府軍が迂回したか、若松方面からの別軍か、船渡防衛軍の背後から挟撃され、白虎寄合隊と防衛軍は陣地を放棄せざるを得なかった。

(この撤退で白虎寄合隊の一部が城下へ向かい運良く入場して三の丸土手の守備についている。
それだけでなく彼らは城外へも出撃して城下で戦闘におよび、また幾人かの少年が戦死している。)

城外に留まった白虎寄合隊の戦いが続く。
ここまで連戦連敗だったのだが9月10日、愁眉を飾る勝利を挙げる。喜多方の東方、米沢街道の熊倉という地で、油断して東進してきた新政府軍に十字砲火を浴びせて伏兵と挟撃。喜多方方面へ撤退しようとする新政府軍の背後から斬りこんで撃退した。
熊倉は喜多方の東.jpg
熊倉は米沢街道の宿場町である。
熊倉宿.jpg
宿の説明版にも『敗走戦争のなかで唯一西軍を撤退させた戦場にもなっている』とある。
この街道を、土方歳三や、追放された西郷頼母も歩いて米沢に去っていった。
訪問時、農道を北上したら、くるまのリアウインドに写る会津坂下方面の空は快晴なのに、前方の喜多方、熊倉の米沢街道沿いには暗雲が立ち込め、降りたら滝のような豪雨になった。
「降りるの止めたら?」
「いや、降りる」
「墓は見ないからね」
大雨の水たまりの先に墓地があった。
雨の熊倉.jpg
赤谷戦線からここまでどれくらいの距離があるのだろう。寄合隊士も雨に濡れたに違いない。

9月15日。。。
白虎寄合隊は阿賀野川を渡って鶴ヶ城南の郊外、一ノ堰村という村に布陣していた。
ここが最後の戦場になる。兵站ルートを確保しようとした寄合隊と諸隊の会津軍だが、それを阻止せんとする新政府軍が遭遇する。緒戦は小倉藩、砂土原藩のみだったが、戦闘途中から薩長と宇都宮藩が投入され大規模戦闘になった。
戦闘直前.jpg

一ノ堰は現在の南若松駅周辺、向羽黒山城の北東である。その地に立ってみるとわかる。平坦地で遮蔽物が全くない。この平原で激戦二連戦になった。
一ノ堰付近.jpg
一ノ堰の風景.jpg
この戦闘で、白虎隊長長原早太他、若林八次郎16歳、鈴木五郎16歳、樋口勇次郎16歳、好川滝三郎16歳、池田勇太郎17歳が戦死した。
城外戦闘1.jpg城外戦闘2.jpg
隊長が戦死したので、望月辰太郎という者が引き継いだ。
中1日空いて17日、新政府軍が押し返して来る
『コノ地遮蔽物ナク弾丸脚下ニ達ス』という地形。一ノ堰と名がつくからには灌漑の堰があったのかも知れないが、白虎寄合隊士は遮蔽物のないこの地に伏せて応戦する。
会津戊辰戦史から。
『白虎隊ハ弾丸雨ノ如ク下ルヲ事トモセズ、皆敏捷ニ行動シテヨク射撃シ、望月以下ノ将校モマタ決死シテ戦ウ』
赤谷戦線では補助要員程度だった少年兵が躍動している。
『我ガ兵望見シ喊声ヲ発シテ益々猛撃ス。朱雀寄合二番隊モマタ山上ニ上リテ白虎隊ヲ援ク』
朱雀隊が、「子供らを討たすな」と援護射撃するサマが目に見えるようである。
更に驚く記述があって、
『白虎隊半隊長原四郎八(早太)、七連発の後装銃ヲ執って俯撃シ兵モマタ連発ス。』
七連発の後装銃!!
兵モマタ連発ス!!
この記述をどう解釈すればいいのか。スペンサー銃以外に考えられないではないか。
白虎寄合隊は新式銃をどうやって手に入れたのだろうか。新政府軍の死体から分捕ったらしいと想像に留めておこう。
射撃操作は八重が教えたわけではない。たまたま知っていた大人の誰かが教えたのだろう。
この第二戦でも新政府軍を撃退した。

熊倉、一ノ堰二戦、この三連戦は会津城外戦唯一、いや、唯三の勝利。
これが最後の戦いになる。緒戦の赤谷戦線から二か月が経った。最も多くの戦死者を出したのが彼ら寄合隊で、わかっている者だけでも、白虎寄合一番隊98名中、戦士14名。。。
二番隊、62名中、戦士7名。。。

山本八重の父、権八はこの戦いで戦死した。南若松駅近く、光明寺境内に墓がある。
光明寺.jpg
権八の墓他.jpg
一ノ堰戦争説明版.jpg
最後に劇的な展開になる。
ここまで隊長が戦死して幾人か交替しているのだが、上田学太輔という家老の立ち合い他、居並ぶ将校たちが戦勝式のようなものを執り行った。
最後の隊長、望月がまず表彰された。
『白虎隊今日ノ戦功ハソノ指揮宜ヨキヲ得タルニヨル』という最大級の賛辞を賞された。
白虎寄合一番隊84人は、何と三階級特進で、近習一ノ寄合席に。藩主に単独で謁見可能に昇進する栄誉を受ける上士に昇進したのです。
その隊名は、白虎士中二番隊と改称された。
(白虎士中一番隊と士中二番隊の生存者は合併され、城内で白虎士中一番隊と称しているからです。)

当時の身分制度を考えるとお堅い会津藩幹部も粋な計らいをしたと思う。彼ら寄合少年隊はこの昇進をどう思っただろうか。
いっとき栄誉に感激し、これまでの労が報われたと思ったかもしれない。だがそれは藩が存続してこそであって、明日はどうなるかわからない戦場なので、すぐに目の前の現実に立ち返り、それほど歓喜したとも思えないのだ。
この栄誉を受けたのは越後戦線から今日まで二か月経っている。城内にも家にも帰れず家族とも遭えず、城外戦場を砲煙硝煙にまみれて駆けずりまわって、表彰時に彼らの脳裏に浮かんだのは家族であり、斃れてうち捨てた仲間の面影ではないか。

戸ノ口原や甲賀町から逃げ帰った士中隊とは違い、白虎寄合隊は歴戦に次ぐ歴戦で鍛えられ、隊員の死を受け入れ乗り越え、後年、白虎最強部隊と呼ばれるようになる。
士中昇進は降伏開城5日前のことである。

写真は向羽黒山城から一ノ堰方面を見た風景。
向羽黒山城から一ノ堰方面を望む.jpg

最長で城外で野戦に明け暮れた寄合少年兵たち。
身分が低い故か取り上げられる機会が少ないのを残念に思うのと、若松城下の敗戦の悲劇をアピールするだけでなく、熊倉、一ノ堰二連戦、局地戦ではあるが、この城外三戦の大勝利をもっともっと取り上げてもいいのではないか。

平成31年3月9日追記。寄合隊の少年兵を士中に昇進させた粋な家老、上田学太輔という人は甲賀町口門から入った郭内に屋敷があった。麦とろが建っている辺りです。
麦とろは家老の屋敷跡にある.jpg
コメント(10) 

コメント 10

ナワ~ルド@峠おやじ

色んな戦闘場面など生き生きと描写してくださり、わかりやすいです。

一連の会津戦史編を読んだり、今回の八重を見ていて思うことは、先の大戦時の特攻作戦とか玉砕戦との符号です。

それが日本人のアイデンティティなのか?それとも会津の色んなものが引き継がれたのか?

明治時代の警察官には会津出身者が多かったと聞きます。敢闘精神だけでなく、身分意識なども引き継がれているのなら糞食らえです。

NHKも主人公や大蔵ばかり持ち上げすぎ。
by ナワ~ルド@峠おやじ (2013-07-24 11:01) 

おたな

こんな記録あるようですが、個人的には重さんの夫川崎さんに注目してます。米手形で会津藩に累の及ばぬように、また八重さんの家にも降りかからないように離縁したらしいし、彼女自身何も語らなかったようです。
明治3年閏10月までには旧会津藩士約2万人の内、4332戸1万7327人が斗南藩に移住したが、若松県内で帰農した者約2000人を始めとし、残りは族籍を平民に移した。
会津からの移住人員1万7327人の内3300人は既に他地域への出稼ぎで離散してしまっており、青森県内には1万4000人余の斗南藩士卒族が残留していた。
その後も廃藩置県による旧藩主の上京により、移住してきた者の送籍・離散が相次ぎ、明治7年(1874年)末までには約1万人が会津に帰郷している。
by おたな (2013-07-25 07:56) 

船山史家

ナワさんこんばんは。
この記事は前々から温めていたものです。昔の記録をなぞりながら現代アクション映画風にアレンジ。書きながら、絶対に士中隊よりもアピールしてやるって気合入れて書きました。
>大戦時の特攻作戦とか玉砕戦との符号。←これに近いものはあるんです。飯盛山で自刃した隊士は後年、もとは薩長閥だった軍部に利用されることで認知されたフシはありますね。
私は個人的には八重さんに、戦争は戦争、恨みは恨みと割り切って、自由奔放に生きて欲しいとも思うんです。
今は会津戦争で見終わったような気がするので、後半の京都編を記事にできるかどうかはわかりませんけどね。
by 船山史家 (2013-07-25 23:43) 

船山史家

おたなさんこんばんは。
ここ数日は会津戊辰Blog化しております。でも今はそういう記事を書かないとね。
開城時の前夜から何やら思いつめた表情の尚之助さんでしたが、見事に「ここに女がいるぞ」ってやってくれましたね。そうでもしないと八重さんは言うことを聞かないでしょう。
実際は猪苗代謹慎所に向かう途中で女なのがバレて放り出されたと聞いております。
これからが尚之助さんの出番かも。予告で2人目の旦那さん(襄さん)が出てるので離別したのはわかっていますが、尚之助さんは斗南藩救済の過程で米の詐欺に遭ったが「自分の裁量である、藩には一切関わりがない」と言い切って獄に入ったとか。
八重さんは会いに行かなかったのでしょうか。
離縁はどういうタイミングで来るのでしょう。
私は斗南藩についてはよく知らないのです。移封地を猪苗代と斗南と提示されて、何故、斗南を選んだのでしょうか。斗南に行ってみたい気はあります。斗南磐梯と名付けた山があって、磐梯山に似て偲んだとか。
by 船山史家 (2013-07-25 23:50) 

翩翻

恐れ入ります。旗を研究している通りすがりの者です。
白虎隊の旗印を初めて目に致しました。目から鱗が落ちる思いです。
丸は日の丸でしょうか。これらは所謂袖に付けた小旗「袖印」に当たるのでしょうか。会津藩の旗といえば白地に「會」を染め抜いた旗が有名ですが、このようなものもあったのですね。よろしければ、この旗が掲載されている文献をご教示いただけませんか。
by 翩翻 (2015-02-21 18:25) 

船山史家

翩翻さんこんにちは。ようこそお出で下さいました。
出典は文藝春秋(文春新書)の「白虎隊」です。平成13年の発行で著者は中村彰彦氏。旗は27頁に載っています。
旗印と軍衣の袖に付けた袖印とありました。丸は日の丸らしいです。横棒のラインの数で南番隊かを示しているそうです。だから三本線(三番隊)はありません。
都内の書店にはまず在庫は無いですが、会津若松駅前の岩瀬書店には置いてありますね。
この記事はかなり力(リキ)入れて書きまして思い入れがあります。ご訪問ありがとうございます。
by 船山史家 (2015-02-22 13:01) 

翩翻

早速ご返信いただき誠に有難う御座いました。早速図書館にて探してみます。記事の内容も素晴らしく、大変勉強になりました。

by 翩翻 (2015-02-24 10:29) 

船山史家

翩翻さんこんばんは。
探してみてくださいね。私の持ってる本は頁がボロボロになってます。でもウチで最も大事大事な本なんですよ。
定説を覆す新史料の大発見が無い限り、廃盤(・・・本だから廃本でしょうか・・・)になるってことはないと思います。なったら会津若松のひとたちが怒るでしょうしね。
by 船山史家 (2015-02-24 20:27) 

佐々木高夫

はじめまして、ブログにも載せて頂きました、赤谷で戦死した寄合白虎一番隊佐々木新六郎とその父佐左衛門の末裔にあたります。
非常に参考となりました。
特に、上士に昇進した事実は初めて知りました。
戦死した14人にも昇進させて欲しかったです。

貴重な資料、誠にありがとうございました。

佐々木高夫
by 佐々木高夫 (2019-12-24 05:57) 

船山史家

佐々木様こんにちは。ご訪問ありがとうございます。
佐々木少年他の無念を慮りながら書きました。白虎隊士は飯盛山で自決した少年兵以外にもたくさんいます。それは飯盛山の墓地に行けば墓標が並んでいるからわかりますが、もう少しそういう子たちの説明も欲しい気がします。広めたくて書きました。
「城外で補給路を確保しろ」峻烈な命ですよね。
「城に戻らんでいい」これが当時の身分差だと思います。
この呟きⅡの頃は無料プランだったので、容量満タンで更新を停止しています。現在はⅢ、こっちは優良プランなのでまだまだ先がありますが、Ⅱの方が会津戊申ネタが多かったです。
そうですね。先に戦死した14人他も昇進させてあげたかったですよね。ただ、既にもとからいる上士たちがすんなり受け入れるかなと思ったりしました。開城降伏してしまうのでそれどころじゃなかったでしょうけど。
by 船山史家 (2019-12-26 12:59) 

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