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里見氏を大河に。。。 [隠れ郷土史]

未だ見ぬ里見第3橋台を探してた日のことです
http://funayama-shika-2.blog.so-net.ne.jp/2013-07-06-4
この日は時期的に草ぼうぼうだったので散策を断念し、街道に下りて、第5橋台に向かう途中の街道筋にこんな幟がはためいていたのを発見!!
マジ?.jpg
これってマジかよ。
無理じゃないの?
店番をしていたお婆ちゃんに訊いてみた。
「あの旗はマジ?」
「???」
失礼しました。マジなんていう現代語が田舎のお婆ちゃんに通じるわけない。「あの幟はそういう運動をなさってるのですか?」って丁寧に問い直した。
「あれはね。。。」
何か核心部分が返ってくるかと思いきや、
「○○さんがこの旗たててくれって言われたの」
○○さんとは地元の顔役さんであろうか。
「ここだけ?」
「いいや、他にも幾つかたってる」
確かに街道沿いに私の数えたところ、6本か7本、民家や果樹園、店にたってはためいていた。
「ドラマ化を実現すべく頑張ってるわけですか?」
「いいや、そういうもんでもない。でも(旗を)たててんの」

こういう運動を過去に一度だけ見たことがある。
米沢へ行った時です。「すみれ」じゃなくって単なる観光です。上杉家の菩提寺、春日山林泉寺、これは越後ではなく米山市内にあるもので、そこに直江兼続夫妻の墓があって、「直江兼続公を大河に」っていう幟を見たことがある。
結果、それは実現した。相当な運動を長年したと思われる。
おそらく来年の黒田官兵衛・・・出陣前夜に大酒を喰らった佐川官兵衛ではない・・・の地元姫路市でも相当な運動をしたのではないだろうか。
直江も黒田もドラマの時代背景的には秀吉、家康に繋がる。メジャー戦国です。だがこの地の里見氏はどうだろうか。
戦国前の時代なんです。

私だって南総里見八犬伝里見氏の発祥地がここだっていう説はこの地に来て偶然知ったんです。地名が地名なので試みに聞いてみたらビンゴだった。
里見という名前の家が多いんです。里見橋台の取材時に知り得た人が言うには、
「こっちの人はここが発祥だって言ってる」
「では房総半島の人は?」
「あっちの人は向こうが発祥だって。でもそんなのどっちでもいいんだよ」って笑ってた。
でもこっちの里見氏を大河にねぇ。
房総安房の里見八犬伝ならともかく、その前時代ですよ。全国区じゃないしねぇ。
参道登り口.jpg
コンビニにくるまを停めた。
すぐ傍に郷見神社という丘があった。里見=郷見という名前も気になったが、その丘が如何にもそれらしく見える。
マニアの人に言わせると、そういう地形の起伏を見て、もしかして?と脳裏に閃くケースがあって、それが昂じると病気だという。
如何にもそれっぽい.jpg
鳥居.jpg
社殿.jpg
頂上部.jpg
登ってみたらこれまたビンゴ。こんな説明版があった。
やはり.jpg
説明版3.jpg
まてよ?
前にもこれと同じものを載せたな。私が以前載せた場所は城山稲荷の裏です。呟きⅠです。
http://funayama-shika.blog.so-net.ne.jp/2012-12-06
その山が向かいに望遠される。
里見城を望む.jpg
里見氏は源氏です。
稲荷だか神社だかが複数あってもいい。今、私が立っているのはそこから道を隔てた郷見神社の丘です。道を隔てて二か所に同じ案内板がある。
一城別格構造だったのだろうか。
案内板を見たら、「南方眼前の丘陵地が・・・」とあった。ここではなく、目の前の丘がそうですよと訴えている。
地続きになってるように見えますが、実際はこの案内板の向こう側は丘の斜面になっていて、麓に分断する道路があり、南方眼前の丘陵地はその向こう側にあります。そこを昨年の晩秋に訪れたらこんな感じだった。
草が刈ってある.jpg
説明版.jpg
草が刈ってある2.jpg
西南の土居2.jpg

「里見氏を大河に」・・・この運動は真面目な取り組みらしい。
(上毛新聞2012年9月23日の記事から抜粋します。)
http://www3.wind.ne.jp/book_haruna/newpage1satominosatosuisinniikai.html
来年2014年度は、滝沢馬琴の「南総里見八犬伝」が刊行された文化11年(1814年)から数えて200年に当たり、加えて元和8年1622年に里見家最後の藩主、里見忠義が鳥取県倉吉市で没して庶子がなかったが為に事実上滅んでから400年近く経つんだと。
里見氏ゆかりの安房の館山市、鳥取県倉吉市、里見氏発祥地のT市が連携して、「里見氏大河ドラマ化実行委員会」を設立。2012年5月14日には里見氏を大河ドラマに推薦すべく、発表人数3万人の署名簿を持ってNHK放送センターへドラマ化への協力を要請したという。
この地に最初にいたのは里見義俊という人なのだが知ってる人はまずゼロとは言わないがその道によほど詳しい人でないと知らないだろう。最後の大名だった里見忠義もそう。

この地の里見氏が安房に移住するまでは戦国初期の頃の動乱を知る必要があるが私もよくわからないのです。
謎も多くてこれまで描かれていない時代ではある。だから新鮮ともいえるが非常に難解でして、応仁の乱(1467年~)はともかく、それよりもっと前、関東の内乱で「永享の乱」(1438年)~「結城合戦」(1440年)~「享徳の乱」(1454年~)という30年に渡る室町幕府と関東ダブル公方、ダブル管領家の泥沼の内乱時代。。。
誰が敵で誰が味方かわかり難いのだ。私だって殆ど知らないし、登場人物は同じような名前が多く、無名とは言わないがお茶の間的にはメジャーともいえない人たちばかり。

バカにしちゃいないですよ。でも知らなくても日常生活に全く支障がないともいえる。題材が難し過ぎるのだ。後半に太田道灌や伊勢新九郎(早雲)が登場すると、やっと知ってるキャラが出て来た~ってホッとするくらいです。
どういう経緯でここ上州の里見氏が安房に土着したのかその経緯すらよくわからないのだ。

里見氏が安房に興した後もこの地には庶流がいて上州一揆衆長野氏の傘下にいた。
餓狼みたいにやってきた信玄率いる甲州軍は、ローズベイカントリークラブの小砦や、里見氏のいるこの地や、ナワさんが制覇した雉郷峠で防戦するが、安中アルプスというその防衛ラインを突破され、本城箕輪城との連携を分断されて里見城は陥落する。
里見城地図.jpg
里見城は里見川と草津街道に面した小高い段丘上にある。
説明版は二か所あって、一つは城山稲荷の裏山。こっちは本城でしょう。
もう一つは今回掲載したコンビニ側にある郷見神社の上です。目の前の丘がそうですよと謳ってはいるが、こっちは出城か物見かもしれない。説明版が新しいので、冒頭の運動の一環で追加したんでしょう。
里見橋台とともに草木に埋もれています。
下りる.jpg
里見氏を大河に。。。これは実現するだろうか。
地味だが信玄に屈しなかった長野業政と併せて描いた方が大河実現可能性が高いかも知れない。
コメント(2) 

コメント 2

yossy


船山史家さん、おはようございます。

幟の家紋を見て、あら?我が家の家紋とと一緒だ、、、。
里見氏と何かつながりが?

多分同じ源氏だったので偶然でしょうね。
この家紋、同じ丸に二でも、色々あるんです~。
お墓を作るとき、墓石屋さんに何度も尋ねられました~。
いまだにはっきりしませんが、、、。一応古い墓と同じものにしましたが、、、。

歴史にはとんと疎い私には、大河ドラマの直江兼続も「うん?この人本当に信長にあったことあるのかな~?って思ってみてました~。」

里見氏が大河になる事はあるのでしょうか?
なかなか難しそうですね。
やはり戦国時代の方が面白いので、、、。

お城は大好きですが、歴史認識には疎いYOSSYでした~。(´・ω・`)ショボーン


by yossy (2013-11-01 07:56) 

船山史家

yossyさん
丸に二つ引き両紋ですね。足利市は二本で新田氏は一本だったと思います。どちらも源氏ですね。

里見氏は新田氏の傍流ですが、私が撮影した幟のある里見という地は高崎市内にあって、同じ上野国でも新田荘(太田市、みどり市、伊勢崎市)から離れてるんですよね。
解説版にもある里見義俊という人が鎌倉時代にここにいたのが最初のようです。その子の義成(※)という人が記録に現れています。
でも上州の里見氏が安房に転じた経緯が不明です。忽然と現れた感じです。

家康が関東に入府した時、上州は赤備えの井伊直政に与えられたのですが、直政の旗下に(※)と同名別人の里見義成という人がいて、私が取材した里見の地を領しました。ってことは先祖の墳墓の地に還って来れたのかなと。

安房の里見氏は江戸初期に突然改易されます。房総半島の突端に外様大名を置いとくわけにはいかなかったみたい。
大河の主役になることはまずないでしょう。房総安房の南総里見八犬伝の方で充分メジャーですから。
後年、北条氏を主役に描いてそのライバルといった位置づけならあるかもですね。
by 船山史家 (2013-11-03 09:06) 

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