So-net無料ブログ作成

小さな前田藩 [隠れ郷土史]

上州に加賀前田家の支藩がありました。
加賀102万石の分家です。七日市藩、加賀藩祖前田利家の五男、利孝が藩祖です。
金沢城内の家系図にも小さ~く載っていた。
1万石です。(寛文4年の調査では12036石、貞享元年の調査では13135石)
系図.jpg
藩祖・利孝の母は「利家とまつ」ではなく、お幸和(明運院)という人です。だが、「利家とまつ」のまつ殿が養育したという。

加賀藩祖・前田利家が死んだ後、家康は豊政権の諸大名に難癖を付けるのが常套手段になっていくのだが、家康が前田家に謀反の嫌疑をかけた時、まつ(芳春院)が人質になって江戸に下る。
その時まつは利孝を連れてった。江戸で養育した。
江戸で暮らした時期の長い利孝は大阪の陣で何かの戦功をたてたらしいが、その功と、おそらくは養母、芳春院の口利きもあったと思われるが、本藩と比べて僅か1/102とはいえ、独立した藩として七日市藩を興した。(元和2年、1616年)
金沢城2.jpg
上が本家です。
下が分家、七日市藩です。
比べるのもヤボだが城持ちと陣屋の違いは歴然。
富岡高校(七日市藩邸跡)2.jpg
越中富山藩や大聖寺藩と違って本藩から分知されたわけではなく幕閣から直々に与えられたので、厳密に言えば加賀藩の支藩でないという意見もあるようである。
僅か1万石の小藩なので内情が苦しく、加賀本藩の援助を受けていたことや、本藩が江戸出府の折は中山道を通るので中継地として利用されていたので、本藩から見たら支藩扱いだったといえそうである。
おそらく藩ご用達商人からの借金も、加賀本藩があってこそ可能だったのではないだろうか。

天明・天保飢饉に悩まされたが幸い何処へも転封、移封されずこの地上州七日市に代々根付いた。藩祖・前田利孝(としたか)の次からは、利意(としもと)~利広(としひろ)~利慶(としよし)~利英(としふさ)~利理(としただ)~利尚(としひさ)~利見(としあきら)~利以(としもち)~利和(としよし)~利豁(としあきら)~利昭(としあき)と続く。

1万石で加賀藩の支藩的な扱いだった為、城主格ではなく陣屋だった。現在は富岡高等学校の敷地になっていて、製糸場に至る旧国道を西に走ると「七日市藩邸」のデカい縦看板が目につく。
富岡高校(七日市藩邸跡).jpg
入ると当時の陣屋が建っている。
東には当時の黒門があってそこは生徒が自転車で出入りしていた。
陣屋の建物3.jpg
黒門.jpg
他にも民間に払い下げられ移築された門が幾つか残存しているそうである。

これは藩邸の土塁跡の土盛り。
陣屋は東西方形だったそうです。
陣屋の土塁跡1.jpg
陣屋の土塁跡2.jpg
1万石とはいえ、長く続いていたので多少のお家ゴタゴタはあった。
第9代藩主、前田利以という人がいる。利以=トシモチと呼びます。
この辺りから世情の不安定もあってゴタついて来る。
利以という人は、天明6年(1786年)・・・というと天明の大飢饉の最中に加賀大聖寺から七日市に転籍(といっていのか?)して来た殿様です。この人の代になって加賀本藩からの援助が受けられなくなったというのだ。
駿府加番(駿府城に派遣され駐屯する役)以外はさしたる実績が見当たらない人だが、文化5年(1808年)に隠居した後も藩政の実権を離さず江戸に別邸を建設して贅美な暮らしに甘んじた。
利以さんはどこのお家にもいる困った殿様だが、いろいろな史料を見ると江戸詰の家臣が隠居した利以と10代藩主利和(利以の養子)との仲を裂こうとしたという陰謀説に必ず行きつく。でも、二人の仲を裂いて、誰を擁立しようとしたのかはわからないのだ。

困ったご隠居様で、浪費癖で藩財政が逼迫した。これが加賀本藩を怒らせ、藩主利和の本家出入りを禁じた。
利和は困った。
養父の浪費癖に手を焼いているが自分は何も悪いことはしていない。でも当主として藩政不行届のように見られたのである。
何とか本藩との関係を打開しようと文化9年(1812年)4月、御側御用人格の須藤という家臣が諫言の遺書を書き夫妻で自害した。辛いことではある。
これで本藩出入り禁止は解けたのだが、隠居した利以の贅沢はその後も続き、文政11年(1828年)に死去するまで藩財政が再建の方向に向かなかったそうである。
そしてその後を継いだ10代藩主の利和は聡明だったらしく、文化13年(1816年)に藩内から集めた6万両を基金として貧民救済への手当、妊娠や4人以上の子供のいる家族に手当したという説がある。これを「生育講」というそうです。農民が他領へ逃散すると人口減が収入減になることを知っていたか、君側が具申したのを取り上げたのだろう。

次が11第藩主の前田利豁という難しい漢字の名前の人。としあきらと読みます。
この殿様は天保11年(1840年)2月に家督を継いだが翌12年に七日市藩は火事で殆どが焼失してしまった。そこへ追い打ちをかけるように大阪城警護を命ぜられ、翌13年(1842年)に無理して成器館という藩校を創設し、焼けた藩邸を再建した。
現在、富岡高校敷地内と各所に現存している建物はこの時の再建です。
嘉永2年(1849年)2月には領内が旱魃に見舞われた。本家加賀藩から援助を受けている。

幕末、元治元年(1864年)11月15日、水戸天狗党が上州七日市にやってきた。
僅か1万石の七日市藩兵力だけでは抗しがたい。かといって領内本街道を通すのを潔しとしなかった横尾鬼角という家臣が。。。
「僅か1万石の小藩とはいえ弓矢もござれば、手をつかねてお通しもなり難し!!」
と啖呵を切り、間道を案内して僅かに面目を保った。
その後、下仁田で戦火になる。七日市藩は参戦しなかった。単独で戦った高崎藩は撃退される。
http://funayama-shika-2.blog.so-net.ne.jp/2013-03-17

天狗党を間道に案内した横尾はこの時は藩を救ってカッコいいのだが、その2年後の慶応2年(1866年)、藩内部の陰謀に加わって失脚するから世の中どうなるかワカランものである。
この事件は江戸詰留守居役の芝塚助八とその党派が藩主利豁(トシアキラ)を廃立し、若年の利昭という幼君を擁立して藩政を独占しようとしたもの。芝塚は横尾鬼角を派閥に誘った。
だが一連のアヤしい動きは本藩の知るところとなる。芝塚と横尾は俸禄を剥奪され永蟄居を命ぜられ、その後すぐに明治新政府の時代になって明治6年1月に最終処分が言い渡された。内容は、放免される代わりに民籍に編入されたというもの。士族を剥奪されたのである。
でも時の司法省にしえは寛大な処分ではないだろうか。
横尾にしてみれば派閥を間違えたとしか言い様がないが、天狗党を七日市に入れなかったことで罪一等を減じたのかも知れない。

七日市藩内が佐幕派と尊攘派に分かれて抗争したかどうかは私の調査では不明のままに終わったが、藩としてはいち早く新政府側についた。

最後の藩主前田利昭は七日市藩知事になるが、やはりここでも加賀本藩の後見を受けている。
藩創始時には江戸幕府から直々に領地を貰ったが、その後は本藩あっての七日市藩という位置づけでしかも1万石の小藩の悲哀も感じられる。本家加賀藩はある時はトテモ頼りになるが場合によってはいろいろ容喙もあっただろう。でも本藩があったのは七日市藩にとってはうるさいながらも幸運ではなかったか。そういう後ろ盾が無い小藩は直に商人から借金するしかなかったのだから。。

(本家加賀藩が江戸出府の折に七日市に宿泊したら大勢の一行を饗応したのだろうか。宿泊費はどっち持ちだったのかな?)

七日市から北に群馬100名山のひとつ崇台山(そうだいさん299m)があって安中市と接する境です。その山の中腹に長学寺というお寺がある。
長学寺入口.jpg
長学寺1.jpg長学寺2.jpg
創建以来1000年、曹洞宗の古刹で七日市藩前田家の菩提寺です。
そこへ至るまでの里と一本道の周辺には人家は殆どない。人もいない。対向車ゼロ。この道はその寺へ行く為だけの道といっていい。
里の風景.jpg
そこへ至るまでの道1.jpg
そこへ至るまでの道2.jpg
前田家と七日市藩解説版.jpg
前田家の墓所解説版.jpg
前田家の霊廟案内.jpg
七日市藩前田家の廟所は山の斜面の段にあった。お墓なので写真は撮っていません。
前田家の霊廟へ.jpg
墓所入口.jpg

七日市藩は富岡高校の敷地になっているが、ここにはもう一つの史話が眠っている。
それは昭和史、秘匿された軍部のものです。
これぞ陸軍中野学校終焉の碑.jpg
陸軍中野学校??
コメント(0) 

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。