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陸軍中野学校終焉の地 [隠れ郷土史]

富岡高校(七日市藩邸跡)2.jpg
七日市藩邸のあった県立富岡高校にはもう一つ秘められたネタがある。
昭和史です。それは陸軍中野学校終焉の地というもの。

陸軍中野学校の創始~詳細についてはその筋の専門家に譲ります。簡単な表現をすれば諜報機関養成所のようなものです。
諜報・・・情報収集のこと。
謀略・・・情報操作。誤った情報や宣伝工作で敵を攪乱する。
防諜・・・敵の仕掛けて来た諜報、謀略を探知し、こちらが偽情報を流して混乱させること。裏の裏を掻くわけですよ
戦争末期には以上3つに実戦として遊撃が加わる。本隊とは離れた奇襲、破壊工作、いわばゲリラ戦ですね。

今年になってからご逝去されましたが、昭和49年(1974年)ルバング島から帰国された小野田寛郎元少尉は陸軍中野学校二俣分校の卒業生だそうです。だが中野学校は軍内部でもその存在が極秘にされ、卒業生は学歴や軍歴を伏せなくてはならない。なので退校という名目で事実上の卒業をされたとか。
日本軍の通常教育とは異質で、捕虜になってもいいから生き残って任務を遂行するよう徹底教育されたという。それもあったから小野田元少尉は島内で生き延びられたのかも知れない。

中野学校の学生は、自分は諜報に向いているからと志望して入校したのではないらしいのだ。
いろんな士官学校出身者からも選抜されたが、それより一般大学生や高等専門学校の出身者が多かったという。如何にも叩き上げでバリバリの軍人らしい人は諜報活動に向いていないということだろうか。
私の素人考えですが、外見や醸し出す雰囲気で正体がバレてしまったら諜報任務にならないと思う。むしろ軍人に見えない、ホントは軍人なんだけど民間人にしか見えないような人、例えば表向きは新聞記者とか、商社マンとかなら情報を得やすいのではないか。

昭和41年に映画化されています。
DVDで復刻されてます。
DVD2.jpg
DVD1.jpg

ここ七日市藩邸跡、現富岡高校が陸軍中野学校終焉の地だというのをさる資料で知った。
くるまを学校敷地内の正門入った正面の駐車場に仮停車。平日なので校内は学生さんが闊歩している。富岡高校の学生さんは大変礼儀正しく、「こんにちはぁ」、と挨拶してくる。こちらもぎこちなく、「お、おう、こんちは・・・」と返すが、現在の学生さんに「中野学校を示すものって何処?」と訊ねるのもなぁ。躊躇した。
存在を示すものが何処かにあるのだろうか。ウロウロ探し廻って不審人物に見られて通報されるのもイヤだし、手っ取り早く受付を尋ねた。
富岡高校.jpg
私は上州に関わる者として敢えてこっちの名刺を見せた。
「個人で訪ねて来たんですが、陸軍中野学校の跡というのはここでしょうか?」
ハッキリ言いました。男性の職員さんが2人出て来られ、
「池の周囲の道が雪で倒れた松で通り難くなっているんですが、そこにこれくらいの(腰の辺りを指す)低い碑が建っております」
「行けばわかります?」
「すぐわかりますよ」
「ではサッと見てそのまま引き上げます」
塞がれている.jpg言われた通りの場所へ向かったら、池を廻る散歩道は折れた松の枝や赤いコーンで塞がっている。

学生さんの安全対策で通行禁止の様子だったが無理に分け入った。そしたら土塁跡か櫓台跡のような土盛の手前に「陸軍中野学校終焉の地」碑があった。国道を背にして正門を入って左です。

折れた松で通行止め.jpg
散歩道の脇に.jpg
これぞ陸軍中野学校終焉の碑.jpg
陸軍中野学校はいつ、何故?ここに移転して来たのか。
移転してきたのは米軍が沖縄に上陸した昭和20年(1945年)3月~4月頃です。陸軍中野学校の学校本部、学生隊本部、見習士官学生、将校学生、実部隊の一部がここ富岡に移転、疎開してきた。
全部は収容できず、当時の富岡町を中心に甘楽郡や現在の高崎市吉井町といった上信電鉄沿線に職員や将校学生600人が分宿した。
移転した目的は米軍が本土上陸して来た場合を想定して遊撃戦(ゲリラ戦)を関東平野各地で展開するというもので、東京の大本営も移転する構想だった。東京から撤退後の大本営移転先は信州松代で現在でもその遺構がある。
写真は信州松代舞鶴山に設けられた大本営移転候補地、天皇の御座所と地下トンネルです。(日本史謎解き史跡探訪から)
大本営トンネル.jpg御座所.jpg
ここ富岡が選ばれた理由は何か?
製糸場があったから?違います。大本営移転予定地、信州松代と東京のちょうど中間地点だからだと思う。
富岡に移転後、泉部隊、関八州部隊といった作戦部隊が新設され、関東を席巻するであろう米軍の後方攪乱、民衆の武装蜂起、遊撃戦の展開を目論んでいた。
だがすぐ終戦になる。昭和20年(1945年)8月14日、日本はポツダム宣言の受諾を中立国に打診、8月15日、昭和天皇による玉音放送により日本の降伏が国民に公表されるが、その数日前の8月11日には中野学校で解散準備が発令され、機密重要文書は焼却処分にされ、通信機器は開発中の兵器も破却されたという。
戦後、前橋に駐屯した進駐軍の追及があったと思われるがその詳細はわからない。
地下に潜って活動を続けた隊員もいたのではないか。
これぞ陸軍中野学校終焉の地.jpg
現在、その存在を示すものはこの碑だけのようです。
いつ誰が建立したのか訊くのを忘れてしまった。私の腰より低いその碑はあまり目立つことなく静かに建っていた。
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コメント 2

金井泉寿

初めまして、近代史勉強会「名惜塾」を主催しているものです。次回のテーマが「特務機関」で中野学校を調べていましたら富岡高校が終焉の地ということがわかり。学校に電話し見学を予定しています。
ネットで調べましたら貴URLに出会うことができました。
この学校は、兄が卒業していて、私も入学する予定でしたが県外の少年工科学校に行くことになり入学はしませんでした。今は、東高と合併したみたいで東高は姉と妹が出ております。
そんなわけで中野学校とのつながりもあり親密度が増しました。
先般、東部ニューギニア、インドのインパールへ戦没者遺骨収集に行ってきましたので前回の塾のテーマは「インパール作戦」でした。
さてお願いですが、来週の17日が講義の日で、富岡の隣の甘楽町の実家に帰りながら富校の碑を撮影しようと思っていましたが千葉の市川にいてなかなか時間が取れず、アップされた碑の画像を使わせていただきたくお願いする次第です。
松代の大本営移転予定地へは先般行ってみました。
よろしくお願いします。
金井拝
by 金井泉寿 (2019-12-11 15:37) 

船山史家

金井泉寿様こんにちは。
過去Blogなので放置しがちでレス遅れました。すみません。
17日だと明後日じゃないですか。間に合いますかね。碑の写真どうぞ切り取ってお使いください。
自分は数年前、群馬に1年だけ飛ばされていました。最初は「何で群馬なんだよ」とネガティヴになりましたが、すぐ「そこにある様々なもの」にハマってしまいました。何でこんなに古墳が多いのかと驚いたものです。私がいる神奈川県はそういうものの保存に全く理解がありませんので。
富岡市は上州一之宮にある行政によく行っていました。新洋亭他、幾つかの飲食店でランチを食べたりしましたが、楽しかった転勤は1年で解けて今日まで月1回のペースで出張しています。最近は富岡市内には行く用事が無くなったのでご無沙汰です。
世界遺産になった製糸場には入ったことがありません。製糸場よりその周辺のアヤしい路地を見てワクワクしたものです。
ご実家は甘楽町でしたか。小畑藩邸、織田家代々の墓、樋が川を跨いでいるあれ、峯城、国峰城他に行きましたね。その他小さい砦の跡とかも。懐かしいです。
富岡高校の敷地内に入ったのは七日市藩邸がきっかけですが、中野学校については後から知ったのです。今の高校生は知ってるのかどうか。おそらく知らないですよね。
このBlogは私個人の記録であり、店や料理や歴ネタの紹介もありますが、そこで起きた人間ドラマを主軸に置いています。中世と違って近代史は私なんかの想像で書くわけにいかないので史実と違っていたらご容赦願います。
市川での講義会成功をお祈りします。お返事遅れてすみませんでした。
by 船山史家 (2019-12-15 16:55) 

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