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三河野田城・信玄狙撃事件一考察 [隠れ郷土史]

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~その壱~

影は耳を澄ました。
笛の音が聞こえた。
ここ数日、殆ど毎夜のように笛の音が流れている。その笛の音は前方の闇の彼方、甲斐軍の重囲で今にも押し潰されそうな小城、三河野田城内から響いて来た。
影は床几から立ちあがった。警護の兵が「何処へ?」と誰何したが、「陣中見回りだ」、言葉短く言って歩き出した。幾人かの兵が付いて来た。
(こヤツらは自分を御屋形だと思っている。)
馬場美濃や山県三郎兵衛からあまり歩き回るなと釘を刺されているが、影は今日まで影で通して生きて来た自信、慢心があった。笛の音のする方へ歩き出した。

影は諏訪の某村の出身だが、御屋形に似ているという理由だけで有無を言わさず村から連れて来られた。それ以来、故郷の村には帰っていない。
幸い村に残した家族には厚い手当が施されていると聞かされている。だが自分は甲斐府中の片隅に押し込められ、衣食住には不自由しないものの単独の外出は禁じられ、気鬱を散じる為に遊ぶことも許されず、平時はただそこにいるだけの日々を重ねて来たといっていい。

御屋形には何度か対面した。
初回に目通りして面を上げた際に「なるほど自分と瓜二つだな」とは思ったが、御屋形が自分を見る視線に身震いした。
その目は、こんな者を使うのかと言う蔑んだ視線でもあり、何かの折に役立つだろうという安く買い叩いたような視線でもあった。いざとなれば使い捨てにすればいいとも感じられた。
側近の駒井という家臣から、御屋形の癖、声音、表情、立ち振る舞い等を口やかましく習得させられた。それは農村出身の影には堅苦しい世界で理不尽に感じたが、影たる自分に諸将や側近が上辺だけでも自分を敬うような物言いに酔う時もあった。
弱体化した今川氏を狙っての駿河侵攻辺りから影は従軍した。
時折は軍議に出るようにもなった。それは緊張と退屈と、「己は一体何者なんだ」の自問自答の繰り返しだった。
軍議では黙っていればいいところをつい調子に乗って出過ぎた真似をしたら幕僚の馬場、山県らに叱責された。酷い時は陣幕の陰で打擲された。
それでも慣れというものがある。将としての立ち振る舞いや重い鎧にも慣れた。

影は自分以外にも影がいるかどうかは聞かされていない。御舎弟の逍遙軒信廉を見た時、「自分より似ている」と思ったが、信廉も影を努めているようでもある。
影を努めてここ数年で気付いたことがある。
御屋形の体調が優れないらしいということ。
自分の出番がやたらと増えて来たのである。特に今回の西上作戦はこれまでにない回数で引っ張りだされた。
(御屋形は病に違いない。。。)
御屋形自ら出張っている時の影は、御屋形の周囲を護る警護のいち兵に過ぎない。護衛が主なので決して最前線に出ることはなく気楽だったのだが、三方ヶ原、二俣城、そして目の前にある野田城攻めと出番が続いたのでいささかくたびれてもいた。

ここ数年間は緊張と退屈の繰り返しだったが、今回の野田城攻めでは焦燥と今までにない不安が加わった。攻囲軍が積極策に出ないのである。
こんな小城を何故一気に潰さないのかと思う。影は所詮は影だが、それでも長年の従軍の経験で城の規模やそこに籠る兵数ぐらいは影なりにわかるようになった。
包囲してからもう二十日あまりも経過している。その間、金堀衆が城内に向けて坑道を掘り進み水の手を絶ったと報告があった。
報告を受けても影は影だから無言で頷くだけである。次に打つ策は馬場、山県、原、土屋、内藤といった諸将が合議してそのうえで影に下知を乞うてくる。だがそれも形式に過ぎない。
影は御屋形ではない。風貌が御屋形に似ているだけの置きものでしかないのだ。力攻めでも開城待ちでも、積極策でも持久策でも「応」と頷いてればよい。否は許されない。
それでも影が思うのは、野田城に籠城する兵は近隣の農兵も入れて500人足らずしかない。力攻めを避ける習慣の甲斐軍にしても慎重過ぎはしないか。

影は御屋形が病臥に伏していることを気付いてはいる。思い至ったのは御屋形の病状が重いのではということ。健勝なら自分の出番は必要ない筈だから。
(御屋形の病は重い。。。)
それを口にするのは許されないが、確実に影は影でなくなりつつある。村から連れて来られた当初は理不尽に感じたが、今は、
(影も悪くはない。。。)
そう思うようになった。だが影は御屋形があってこその影なのだ。
(もし御屋形の身に何か起きたら。。。)
自分は必要とされなくなるのではないか。背に冷や汗が流れた。

影は数人の徒歩兵を連れ、笛の音のする方向へ歩いて行く。
攻囲陣の先端は台地が切崖になっている。そこから先、笛の音が鳴る方向を見た。
笛の音は未だ続いている。
だが、その笛を鳴らす者の傍らで、ひとりの狙撃兵が火縄に点火した。影は仄かに点った火に気が付かない。
かがり火が不用意に影の上半身を闇に浮かび上がらせたその瞬間、轟音とともに影の身体は後方に斃れた。

~その弐~

信玄は臥所から起き上がった。
上体のみ起こした。身体がひどくだるい。発熱と、胸につかえのようなものがある。
今日も吐血した。量は多くなかったが、侍医の高白斎にうるさく言われ今まで寝ていたのである。
何処かで笛の音がしていた。
(また今宵も誰が吹いている。。。)
ここ数日、笛の音が続いている。だが陣中の笛の音ではない。10倍以上の数で包囲されている野田城、本丸郭の西の一角から聞こえてくる。

信玄は笛の音を耳にすると、過去に傍に置いた女子たちを思い出さずにはいられない。
京から来た正室、三条夫人も笛をよくした。
諏訪の姫は信玄への憎悪を夜毎、自ら奏でる笛で逸らしていた。
諏訪の姫はもうこの世にいない。自分の家を滅ぼした信玄に、勝頼という子を残して他界している。
他にも側室は数多くいる。いずれも多少の笛や管楽の嗜みはあった。
笛にはいい記憶も忌まわしい記憶もあった。普段は思い出さないが、野田城攻城陣中で夜毎に流れる笛の音と併せて昔を思い出すのである。

信玄は海が欲しかった。
だが海を手にするのにかなりの歳月を費やした。甲・駿・相の三国同盟が足かせになり、併呑した後の信濃から先へ目を向けた。
信州川中島の先には海がある筈だった。だがそこから先は長尾景虎という難敵が立ち塞がり、長い長い戦いを強いられた。
信玄は己と正反対の将、景虎がよくわからなかったのだが、その景虎のせいで北の海を目指した信玄の侵攻は川中島で止まった。あの激戦で舎弟信繁、隻眼の軍師・勘助、老将両角豊後他、多大な犠牲者を出したことで景虎とまともにぶつかる愚をようやく覚ったのである。

それでも海が欲しい。
田楽狭間で三国同盟者の今川義元が敗死したのを機に南へ目を剥けた。反対する嫡男・義信を廃し、それに同心する者を粛清して三国同盟を一方的に破棄した。そして当主義元が敗死した後の駿河に火事場泥棒同然に押し入り、今川家を追いやって海を手に入れた。
長かった。
(だが、あの三国同盟は必要だったのだ。)
現実主義者の信玄は過去を無駄だと悔いたりしない。今は西に目が向いている。不治の病と闘いながら齢五十三で西上作戦の途に就いている。

「今宵は信廉か?」
影は誰か尋ねたのである。返ってきた答えは意外にも、「信廉様は背後から襲って来るやも知れぬ三河勢に備えております」というものだった。
(信廉は後方におるか。)
三方ヶ原で大敗させた三河勢にそのような余力があるかよと思う。信廉もひとかどの戦はできるがどちらかというと武より文の方に抜きんでている。あまり前線に出たがらないのである。
(では今宵は・・・ヤツが影を努めおるのか。)
そう思ったら重い胸が更に悪くなった。
信玄は己の影を努める者を初めて引見した時、このような者が俺の分身になるのかと嫌悪感を抱いた。何故だかわからない。己と似た者、己を初めて見て嫌な気持ちになっただけである。
その後は気に留めなかったが、症状が重くなるにつれて、その者、影の出番が増え、己は奥に大事に寝かされることが増えた。三方ヶ原に快勝した頃から病状が重くなり、信玄が病臥に伏したことで武田軍の進行も遅くなった。
三方ヶ原から先は三河へ攻め入るのか、その先へ進むのか。たかだか500の兵が籠る野田城を包囲してもう一月近くに停滞している。
諸将は側近の駒井を通じて形勢を報告してくるし、その先の指示を仰いでくる。今は病臥中の信玄が言った方策を軍議にかけ、それに影が頷くことで全軍が動いている。
信玄の意志で動いてはいるのだが、演技とはいえ表で決断するのは影なのである。情けないことに今はその影がなくては軍勢が機能しないところまできている。
「今宵もヤツが努めておるのだな」
「御意」
「では夜風に当たることも叶わぬか・・・」
「夜風は御体に障ります故・・・」
何か胸の奥に塊のような異物感がある。病の症状とは別に、この期になって心のつかえが取れない。

信玄は胸に手をやった。その所作と同じくして、病室の闇に嫡男義信の顔が浮かんだ。
(義信・・・)
自害に追いやった。義信の妻女は今川家の女だった。表だって駿河侵攻に反対したから廃嫡した。
残された勝頼はまだ若い。諏訪家という微妙な立場もある。
(あと10年、せめて5年あれば。。。)
ここ数年の焦る気持ちと裏腹に、病魔は確実に信玄の身体を蝕んできた。信玄は己の最後の攻城戦に臨んでいることを知らない。

闇に浮かんだ義信の顔が消えた。
次の瞬間、笛の音が突然途切れ、同時に轟音が響いた。
陣中が慌ただしく騒いでいる。
「見てまいります」
宿直の兵が出ていった後で信玄も自ら起き上がりかけた。だがその時、胸の奥底にあったつかえが巨大な血の塊となって込み上げてきた。
ドッと吐血した。
かつうてない大量な血の塊だった。咳き込んだ。器官が詰まる。
「御屋形が撃たれた」という声が遠く聞こえた。違う、俺はここにいる、誰かいないか。。。
意識が遠くなっていった。

〜そして〜

信玄の死因は労咳(肺結核)とも胃癌とも言うが、ひとつの異説がある。
信玄の生涯最後の攻城となる三河野田城を包囲中、信玄が野田城内にいた村松芳体という人の奏でる笛の音に毎夜聞き入っていたら、鳥井三佐衛門という鉄砲の名手・狙撃者が放った弾丸が信玄の耳を撃ち砕き、この銃創がもとで死亡したというもの。
勝ち戦でありながら武田軍が甲斐方面へ撤退したことや、その行軍の遅さもあってそういった伝説が起こった。
これが有名になったのはカンヌ映画祭で最高賞を受賞した黒澤明監督の影武者の影響かも知れない。私も高校生の頃に見たが、意外な死因と驚いた記憶がある。
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この出典は三河後風土記、野田城の城将定盈の一族が後年表した菅沼家譜他、徳川方の幾つかの文書に現れているそうだがいずれも後世のもので。武田側の記録には表れないようです。

私は前述のように、野田城攻囲陣中で狙撃されたのは信玄の影ではないかと思ったりする。
信玄その人は病臥に伏して病状が悪化しており、陣中には影がいて、(武田逍遙軒信廉だったかも知れないが)その影が撃たれたということはないか?
というのは、野田城は籠城戦1ヶ月で金堀衆により水の手を絶たれ援軍もなく降伏開城、城将菅沼定盈は捕われるんだが、後日、人質交換で三河に帰還するんです。生かされてた。
信玄本人が狙撃され死亡してたら城将菅沼定盈の命は助からなかったような気がするのだ。捕えただけなのは信玄にしては甘い処理のような気がするのである。
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野田城へ行くには、東名高速豊川ICで降りて国道151号線(伊那街道)に沿って走ります。
ナビに飯田線の野田城駅を入れた。
「そういう駅があるの?」
そう。あるんです。飯田線は沿線集落に一つひとつ駅があるので駅と駅間の距離が短い路線で知られている。その飯田線の駅です。
豊川方面から来ると、野田城駅まで行かなくても途中に案内看板が立っています。
「野田城って山じゃないでしょうねぇ。。。」
「小さい城だよっ」
例によってブツクサ言うジャン妻である。山だったらアタシは付き合わないよと。過去に韮山城、狩野城、後閑城、春日山城、あの程度の標高の山でブゥブゥ言われた。
ここに来る前、「浜名湖が見たい」と言うから見に走り、「どっか洋食店はないの」と言うものの、浜名湖周辺の飲食店は鰻だらけで諦め、結局は野田城近くの太田家という寿司屋さんなのか居酒屋なのかわからん大きい店で鰻の釜飯を喰ってから野田城へ訪城。
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寿司屋か居酒屋か.jpg
鰻釜飯1.jpg
鰻釜飯2.jpg
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伊那街道に入口の掲示版があって細い路地に入る。
左手の雑木林に幾つか案内板があって、入口の表示がある箇所だけくるま1台何とか停車できます。
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三の丸も雑木林.jpg
二の丸は雑木林.jpg
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縄張り図.jpg
国道方面から郭が横一列に連なっているような縄張りだった。
大きくはない。この程度の城に籠って1ヶ月も耐えた菅沼軍に感嘆する。それとやはり信玄の病状は重かったに違いない。
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城内1.jpg
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井戸.jpg
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「中に入るの?」
当然じゃないか。
「信玄を撃った場所が見たいんだよ」
「・・・」
それは西側の一画にあった。
狙撃した方面に木々に隠れて寺が見える。
「あの寺かな・・・」
「・・・」
ジャン妻は、この亭主は次に寺の何を見るのか、まさかお墓じゃないでしょうねぇといった怪訝そうな表情である。
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「さっき見えた寺に行く」
「お寺ぁ???」
「撃たれた場所が見たいんだよ」
「・・・」
信玄を撃った場所は見た。そこは加害者側である。信玄が撃たれた場所、被害者側の現場を見ないとストーリーが中途半端じゃないか。
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その寺は法性寺という。
寺の東側は野田城、西側も切崖になっている。低地にあるんです。察するに野田城の自然の濠跡に建てられた寺ではないだろうか。
その寺の門は野田城からの移築だという。だとしたら相当古い門ではないか。
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門の説明.jpg
撃たれた場所はこちら.jpg
この階段を上る.jpg
参道の脇に信玄が撃たれた場所とあった。そこは切り立った崖の斜面に階段があって、
「上るの?」
「うん」
「ホント、アナタって人は何かそういう目的があると行くね」
「・・・」
上がった平場は民有地の一画で工場や倉庫が建っていて、撃たれた現場はそこにあった。
狙撃された場所.jpg
狙撃された場所説明版1.jpg
狙撃された場所説明版2.jpg
そこから野田城方面を望んでみたら直線距離にして100mあるかどうか。火縄銃の殺傷射程距離は50m~150mくらいだろうか。充分届きそうである。
野田城から見て、撃った辺りで「御屋形が撃たれた・・・」といった騒ぎ、ざわめきが聞こえたという。
撃った野田城を望む.jpg
狙撃した側でありながら、撃った相手を信玄と呼び捨てにしていない。信玄公と謳っている。
「歴史上の英雄を撃ったって謳うのもどうなんだろうねぇ。」(ジャン妻)
でも宇喜多直家のように誰かを鉄砲で暗殺したような暗いイメージは薄いように思える。それは攻城戦の最中であること、万余の大軍で僅か500人の小城を包囲したこと、狙撃事件がなくても信玄が病魔に侵されていたこと、たった一発の狙撃で西上の夢が絶たれた無念、様々な背景が集まってのドラマが創造されたからだろう。

この辺りに蟠踞した菅沼一族や奥平氏はいずれも小領主で武田家が席巻する南信濃の国境近くにあり、松平家に付いたり武田家に通じたり微妙な位置にいた。
野田城将菅沼定盈は菅沼氏の支流だが、野田城開城で武田軍に捕らわれたとはいえ松平家に対しては鉾を構える事が無かったのである。一度も裏切らなかった。
家康側から見て甲州軍の脅威が去ったのは結果的に信玄の病死だが、菅沼定盈が野田城を死守した、開城したがその後甲州軍が撤退した、そのことで菅沼氏の功は高評価され、江戸政権下においては粗略にはされなかったという。
家康の関東移封で菅沼一族は上州にも来たことがある。家康は譜代家臣にはケチなので、最初はいいとこ1万石程度だったのではないか。
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野田城は信玄生涯最後の攻城戦でもある。そこで狙撃された銃創が元で死んだ・・・の真偽は定かではないが、野田城はその場面のみ光芒のように現れて消えて行く城なのです。
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武田軍は甲斐に戻って行く。
元亀四年、のちに天正元年になる1573年1月11日、引き上げる途中の信州伊那駒場において4月12日永眠、享年53歳。
コメント(2) 

コメント 2

るな

おはようございます。
野田城に行かれたのですね。
以前訪れた時より整備された感が。

信玄公のラストバトルになったお城。
しかも撃たれた…歴史好きには堪らない物件です(^o^)
by るな (2014-05-30 06:57) 

船山史家

るなさんこちらにもありがとうございます。
遠州浜松の創作酒場に行った翌日の訪問です。過去に数回、行ってるんですが、いつも浜松城や三方ヶ原は素通りしています。
前に浜松で飲んだ翌日、水窪の高根ってとこに行ったことがありますよ。
http://funayama-shika.blog.so-net.ne.jp/2010-10-26
野田は小さい城でしたね。私みたいな素人目でもこの小城を何で1ヶ月も包囲したのかなって思ったです。
二の郭と三の郭は草ぼうぼうで入れませんでした。
帰ってから知ったのですが、どうせ遠州まで行くなら井伊直虎の軌跡もたどれば良かったです。
by 船山史家 (2014-05-30 08:03) 

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