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吉井藩祖 松平信平の謎 [隠れ郷土史]

上州に1年赴任する前に、現地に伝わるアヤしげな生存伝説を3つ調べてやろうと事前に確認しておいた。
一つは前橋市の淀君生存伝説。
http://funayama-shika.blog.so-net.ne.jp/2012-06-15

二つは赤穂藩逐電家老、大野九郎兵衛の潜伏設。
http://funayama-shika-2.blog.so-net.ne.jp/2013-05-31

そして三つめが、駿河大納言徳川忠長卿の遺児が、吉井藩祖松平信平ではないかという異説。
私もその道の学者ではないので、現地での伝承のみ述べます。
吉井陣屋門3.jpg
明治維新まで続いた吉井藩の藩祖たる松平信平は駿河大納言忠長卿の遺児なのだろうか。
駿河大納言の子也.jpg
吉井陣屋跡に建つ藩士建立の碑文には、諱信平出自鷹司。。。駿河大納言之子也。。。とある。
陣屋門の説明版にも、鷹司の出と謳っている。
京都鷹司家の出自.jpg
卿之子也、松平信平、京の鷹司家、この各ポイントはどうつながるのだろうか。

まずガッカリさせるようで申し訳ないが、碑文から検索できなかったので別の資料を見たら、信平の生まれが寛永13年(1636年)になっているという。
卿が自刃したのが寛永10年(1633年)12月なので、この3年の差は誤差の範疇ではない。ちょっとオカシイと言わざるを得ない。

では候補者のもう一人である長七郎長頼はどうか。
実母らしい庚子という側妾が卿のお傍に仕えたのと、小幡藩織田家から正室が輿入れしたのも同じ元和9年(1623年)だった。どちらかが産んだ遺児がいたとしたら、母は庚子、これが最も信憑性が高そうだが、その遺児イコール長七郎かどうかはわからないのだ。
長七郎長頼という人物が実在したのかどうかという別の議論になってくるんです。後年、TV時代劇に取り上げられた所以でもある。忠長卿の血を引く遺児が江戸の悪を斬るといった格好の素材、人物。
長七郎江戸日記.jpg
次に鷹司家との関係だが、卿の兄、家光の正室孝子が鷹司家出身なのである。
この孝子を通じて卿の遺児を鷹司家に預けたというが果たして本当だろうか。後年、家光は忠長卿への処置を悔いたか、または卿の遺児を憐れんだのだろうか。
家光ってそんな甘い人物かねぇ。実弟とはいえ忠長卿を抹殺したくてしょうがなかったように見えるのは穿った見方ともいえまいて。実弟と将軍継承権を争って勝利した暁に自刃させ、検視に向かった老中に「駕籠でなく馬で行け」って叱責したくらいだからね。
まぁ百歩譲って後年、後悔したとして遺児を鷹司家に預けたとしよう。もしかしたら「自刃させよ」は家光の意志ではなく、土井利勝辺りの幕閣の陰謀かも知れないしね。だがその遺児を幕府内には置いておけないだろう。誰かが担いでまた幕閣の争いのネタにならないとも限らない。だから京都、鷹司家へ送ったのだろうか。

信平と長七郎の関係について、以下の説はどうか。
長七郎が諸国を放浪した果てに江戸の麹町で豪商の娘をならず者から助け、それが縁でその女性と一家を持ち、一子長松丸が生まれた。
この長松丸が後年、鷹司家の猶子となって信平を名乗ったという説がある。
何かがつながっているようには感じる。

吉井町には資料館があって私は平日に訪れている。
何だかヒマそうで、私が入ったら例によって不審な闖入者と思ったフシがある。入館料を出したら館内の照明を点灯したからね。
町史を購入して2階へあがり、甲冑やら模型やらを見た。その町史では三つの説が載っていた。
一つめは私も見た碑文です。駿河大納言卿の子也と。大納言卿薨じた後に産まれ、大猷公(家光)が舅である鷹司家に託したという定説。
問題の碑.jpg
もう一つは、前の定説に加えて、太祖信平公は前の関白、太政大臣信房卿の第四子也と筆を加え、実は駿河大納言卿の遺腹の子也とある。
異腹の子ではない。遺腹です。忠長卿が自刃した時、奥方のお腹にあった子の子、すなわち孫だというんだな。
吉井藩二十話.jpg
三つめには長七郎が出て来る。これには忠長卿の長男が長七郎であるとハッキリ書いてあった。その長七郎は慶長19年(1614年)生まれで、父忠長卿の自刃後は流浪の身となったが、幕府や紀州藩の保護を受ける。その後、江戸商人、木綿屋新兵衛の息女、みつとの間に儲けたのが信平だという。
信平は長七郎長頼の子なのだろうか。

だが、ここに出てくる木綿屋新兵衛と、その娘みつが前述の江戸麹町で出会ったとも書いていないし、産まれた子が長松丸とも明記してなかった。
それでもスッキリした話の流れだが、残念なことにこの説には決定的な間違いがある。
忠長卿の生年は慶長11年(1606年)なのである。
長七郎は慶長19年(1614年)生まれなら、殆ど同じ世代になってしまうのです。
系図.jpg
信平が鷹司家から吉井藩祖へ転籍というか、公家から武家になったのは間違いないらしい。
最初は7千石で万石に満たなかったが、長七郎が紀州藩の庇護にあった伝説も絡むのか、正室は紀州藩頼宣の娘を迎え、屋敷は紀州藩邸の一郭にあった。
紀州藩の分家みたいだったというが、分家というか居候であろう。
牡丹紋.jpg鷹司松平家となって紋章は牡丹紋。他にこの紋を許された大名は伊達、島津、鍋島、津軽しかいない。
諸役や軍役も免除され、領内を治めるだけであとは格式を誇示して悠然と暮らしていたかのようである。

その特別待遇を奇異に見た大名や幕閣もいただろうし、徳川家の血を引く者として囁かれたのは想像に難くない。公家から武家への転身を果たし、さらに子孫が大名となるという極めて特殊な経歴から、信平は実は徳川将軍家の血筋の人物であったという風説が生み出された。
そしたら後年、鷹司松平信平の経歴に松平長七郎が混同され、元を質せば駿河大納言卿に行きつく説が流布される。真偽は闇の中だが、公家の庶子を出仕させて大名に持ってったのだから、やはり信平には何か憚りや差し障りのある謎があるのだろう。
(信平は鷹司家の実子だったという説や、家光自らの落とし胤ではなかったかという説もある。こっちの方がスマートな説のようにも思える。)

斜めから見た門.jpg
凄いのはこれら一連のホントかな伝説、伝承を、もと吉井藩士が治跡として堂々としたデカい碑に刻み記録に残し、現在の吉井町もそれは当然と受け入れていること。これは町が律令制時代の最古の漢文碑を三つも町内に持っていて、おとなしい風土ながら実はプライドが高く、のんびりした町だが藩祖を敬っているのだと思う。

だが、それだけであってそれ以上に声高にアピールしてるわけではない。
松平信平は卿の子なのか、長七郎が子で、信平は孫なのか。残念ながら結果、わかりませんというのが結論です。

長七郎伝説は舞台を上州から秩父に移って更に生き続けるのだがそれは割愛する。最後に、鷹司松平信平は時空を超えて現代の平成の世に現れている。
この本です。
もしかしてこの人?.jpg
二見文庫はあまり知られていない新進気鋭作家を掘り出し、世に送り込んでいる文庫だろうか。この本のカバーには、『公家鷹司信房の子、信平は庶子であるため、門跡寺院に入るしかない。坊主になりたくない信平は15歳の時に将軍家光の正室となっていた姉の孝子を頼って江戸に出た。。。』
高貴な血筋を隠して江戸の悪を斬るというお定まりの内容なのだが、内容が軽いのでこれ1冊で読むの止めちゃった。今は7巻くらいまで刊行されているのかな。
別の但し書きにはこうあった。
『公家出身ながら後に一万石の大名となった実在の人物、松平信平の痛快な活躍!続々重版の人気シリーズ』
だそうです。吉井藩を興したのは間違いなさそう。
このシリーズで様々な謎は明かされるのだろうか。
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