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高崎城 [隠れ郷土史]

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今思えば、僅か1年だけとはいえ私は高崎城下町に住んでいたことになる。最近調べて気付いたのですが、高崎城には木戸が7つあって、
①常盤町口、長松寺南側。これは中山道の西口方面。
(長松寺は駿河大納言卿が自刃した城内書院が移築されている。)
②新喜町口、中山道の東口方面らしいのだがよくわからない。
③相生町口、四ツ屋町境。これは北方・三国街道方面。
④江木新田口、高砂町。北東の前橋方面。(江木町のBELCによく買い物にいったものです。)
⑤羅漢町口、法輪寺南側。大類口。
⑥通町口、安国寺南方。旧街道口というがよくわからない。安国寺は毛利の外交僧ではなく、現在の小酒場やスナックが並ぶ通町の二車線一通沿いにある。
⑦前栽町口、興禅寺附近。片岡口という。興禅寺は焼きそばで有名なもりや食堂の近くのお寺です。

⑤の羅漢町口にある法輪寺はうさぎCAFEの向かいです。この木戸は私が在住した社宅近くらしいのだ。私は城域に住んでいたことになる。今頃知った。
これは赤備え井伊直政が箕輪城から移転して最初に高崎築城を手掛けた頃から、城下町を包む遠構(とおがまえ、惣構)を構築したもの。
現在は道路になっているが、往時幅が10m程度の水堀、その内側に高さ4メートルほどの土塁で囲まれていった。そこに①②③④⑤⑥⑦の7箇所に木戸が付いた出入口があった。
私は城下どころか、城内に住んでたといっていい。
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高崎城と高崎藩の履歴、詳細についてはその筋の専門サイトに譲ります。私は公用で対行政を担っていた関係で、行政の庁舎から乾櫓の辺りをチョイチョイ歩いた。
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乾櫓1.jpg
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現存する建物は前述した大納言卿自刃の書院とは別に、4つあった櫓のうち一つ乾櫓と、通用門として使われていた東門が並んで現存している。
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乾というからには本来は西北なのだが、現在は逆の位置の東、スズラン百貨店の近くに移築されている。
乾櫓と東門、どちらも農家に払い下げられていた。よく残っていたものである。下記サイトの古写真見たら乾櫓なんかは下小鳥町(当時は村)の名主さん宅で納屋として利用されていたそうで、漆喰が剥げ、壁が崩れてボロボロになっていました。
高崎城は主に土で固められた城で石垣は殆どなかったようで、現在、乾櫓を支える石垣は後世のものとか。
三の丸土塁1.jpg
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これは私がしょっちゅう出向いた行政庁舎の敷地内にある城内の水道と樋。箱モノを建設した際に出て来たようです。
石垣水路と石樋.jpg
桜とお堀1.jpg
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高崎城は家康の関東入府に伴って赤備えの井伊直政が造り始めた。何故ここに造ったかというと、烏川に面して中山道と三国街道がクロスする要所だった、この地に和田城という上州一揆衆の和田氏の小塞があった、等の理由によるもの。
その和田城はどの辺りにあったのか。現在、烏川沿いを走る17号が、観音様方面に渡る道とクロスする辺りに和田橋という橋があるが、どうもその袂にあったようです。後年は高崎城に取り込まれたらしい。
だがどんな縄張りだったのか不明です。

下写真は和田城の櫓台と伝わる小山が消滅したもの。
和田城消滅.jpg
和田氏の何代目かの繁盛という人は上州一揆の盟主、長野業政の娘婿だったが、業政の死後は武田氏に従う。お決まりの如く、中山道を東下してきた太閤上方軍勢(前田利家&上杉景勝)に攻囲されて開城する。
和田城が高崎城になって有名な事件は、駿河大納言卿が城内で自裁したこと・・・ぐらいだろうか。それからは特に戦火に見舞われていないようで、現在の市役所庁舎、図書館兼健康保険センター、総合医療センター、シティギャラリー、ホール等が建つ現在の光景からだと想像つかないが、陸軍連隊が置かれた明治7年に破却されるまで火災にも遭わずに天守が残存していたという。
譜代の藩なのに大っぴらに天守とは呼ばず、御三階櫓と呼称されていた。江戸が近過ぎるのか、天守と呼ぶのに幕閣を憚ったに相違ない。
高崎城天守は明治の頃、写真に収められている。
明治6年撮影天守.jpg
三層で可愛らしいコンパクトサイズに見える。
(古写真、和田城消滅写真はhttp://takasakijou.web.fc2.com/からの転載です。)
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上州菅沼氏の系譜 [隠れ郷土史]

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上のMAPを見てください。
上が北です。居酒屋なすびの対岸にある滝山城が東にあって、別名がカッコ書きで下山城。
そこから西、同じ町内にもうひとつ下山城が。。。
安中市がコピペをミスったか。西にある下山城とはマニアの中では菅沼城というそうです。どうもご近所同士で下山城という同じ別名を付けちゃったみたいですね。
今まで忘れてましたが、私は上州に住んでた1年間の初夏の頃、そこにも行ってました。

城主は菅沼定清という人。
地元の人か研究者以外ではまず知ってる人はいないだろう。でも定清さんが同じ菅沼、菅沼定盈の一族だとしたら、定盈さんならご存知の方がいるかも知れない。

定清さんの事績はわからないが、菅沼定盈という人が家康の家臣で三河野田城主だったこと、黒沢明監督の「影武者」で武田軍が僅か400人か500人で護る野田城を包囲中、信玄が城中から聞こえる笛の音に聞き惚れていたらズドンと狙撃されたというあれですよ。ここ上州の菅沼氏はあの騒ぎの一族、もしくは遠戚かと思われる。
笛の音で誘いだし、狙撃したが夜陰なので命中したかどうかはわからないが、ズドンとブッ放した後に武田陣中がザワザワ騒ぎだしたこと、その前から武田軍の攻城が遅く鈍かったこと、この後、甲斐に引きかえす途中で信玄が亡くなったこと、もしかしたら死因は城内から放った鉄砲の弾が命中したのか?様々な憶測が絡んだ戦国の一光芒場面です。

野田城そのものは水の手を絶たれて開城するのだが、菅沼定盈は誰かとの人質交換で復帰する。ここ上州磯部に菅沼氏がいたのは、家康が関東に転封されて菅沼氏も付いて来て、武田に下らず付いて来た菅沼氏へのご褒美、恩賞だと思う。
だと思うけど。。。
少ない恩賞です。1万石あるかどうか。諸侯ギリギリの待遇としか思えない。
海雲寺.jpg
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菅沼定清がいたという地は海雲寺の境内になっているが、東側に堀っぽい窪みが長く伸びているのがわかる程度。
見せかけ程度、申し訳程度にしか見えない規模のもので、素人目に見ても防御や象徴を前提にしていると思えない簡素さ。
誰かが言ってました。家康は三河譜代の配下に与えた禄が少な過ぎるって。

菅沼氏は私の知るなかで上州にもう一族あった。
吉井藩祖松平信平の謎http://funayama-shika-2.blog.so-net.ne.jp/2013-09-30で取り上げた上州吉井藩が起こる前の話です。吉井町の塩川というところに菅沼大膳という人がいた。
大膳は武田がよほど嫌いだったらしく、僅か数百人の手勢でこの辺りの平城に籠り、武田軍に抵抗抗戦して玉砕した。
写真は菅沼大膳が戦った塩川、現在の様子です。川に面していて、巨大餃子で有名な店が営業中。
川に面している1.jpg
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店内は今でも戦場みたいだが、店自体が攻城戦のあった小塞跡にあるんです。
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菅沼さんが食べたわけではありませんが、巨大な餃子です。喰い難くて私は一度だけしか喰わなかった。
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その後、この辺り一帯には、やはり家康の関東移封で付いて来た菅沼氏がいた。菅沼定利という人。
だが定利の親父さんで部少輔という人がいて名前がわからないのだが、同じ菅沼一族なのに武田氏に寝返っており、武田勝頼が滅んだ時に処刑されたらしい。
刑部少輔の遺児定利は前述の野田城主、定盈のとりなしで家康に帰参し、かつて同族が武田軍に抗して滅んだ吉井町に2万石を貰った。
だけど前述の磯部安中では1万石、合併されたとはいえ隣りの市町の吉井では2万石、何だか必要最低限しか与えない家康のケチとも思える家臣への僅かな褒章感覚は何処から来るのだろうか。
菅沼定利墓碑1.jpg
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風は山河より.jpg菅沼一族は、宮城谷昌光さんの著書、「風は山河より」で主役になっています。
この本、持ってたけど難解でした。信長や家康が生まれる前から描かれているんですが、登場する一族の名前が多すぎて覚えきれないんです。
人質時代の家康さんはさぞかし苦労したと思うが、その頃の苦しい生活感が、後々家臣へ与える待遇の少なさにつながるのでしょうか。
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なすびの対岸に。。。 [隠れ郷土史]

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磯部の居酒屋なすびは碓氷川南の河原に面している。
ママはこの地に別宅を建て、ゴルフ場帰りの親戚や友人をお招きして賑やかにやりたいという目論見だったらしいが、ご亭主が、「川のせせらぎ音が気になるなぁ」と難色を示したそうです。
ママが言うには、「ここだけ川の流れが曲がってるので流れる川音がそれほど気にならないでしょ」
実際は川が二手に分かれ砂洲を作っているんです。でもご亭主がそう言うのでここに住むのは止めた。
食べ物屋さんを営りたいという気持ちを抑えられなかったのもあって、じゃぁここで居酒屋を営むことにした。今は磯部駅のタクシーでただひとこと、「なすび」と言えばこれだけで通じる。

夜のなすびは周辺が真っ暗で川音だけ聞こえる。フェンスがあるとはいえよ~く目を凝らさないと敷地の境界と川、河原の位置が掴めない。
アブないので酔って河原に降りないでください。
ええっと、今日はなすびの記事じゃないです。日昼になすびに来て曲がった碓氷川を眺めていたら、対岸は見上げるような断崖で竹林が鬱蒼としている。
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(城塞でもありそうだな。)
そしたらホントにあったのである。豪雪の中を学習館に行った際、2階フロアにこんなMAPがあった。
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私に縁あったロ-ズベイカントリークラブ蔵人城、ジャン妻が「お茶してくれなきゃ付き合わない」と言った後閑城、磯部、簗瀬、榎下、人見といった小塞が点々と位置を示してあったが、磯部駅近くを見たら、ちょうとなすびのある位置の碓氷川対岸に滝山城というのがあった。
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東南にある武田方の磯部城と斜め向かい合うようになっている。
甲州軍は南から侵攻し、安中城~松井田城の東西連絡を絶つべく簗瀬に八幡平陣城を置いたのだがそこにも近い。
東西のラインに楔を打ち込まれて、碓井川を挟んで睨みあった。緊張高まる最前線だったのである。

碓氷川北岸の段丘にあった。碓井川を挟んでなすびの真向かいにあった。
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現在は不動山聖明寺の境内となっている。
ここへ行くには安中消防署郷原分署の横にある細~い道を入り、やや緩いカーブの辺りに小さい老健施設らしきものがあって、その先をすぐ右折、細い道を下るとすぐです。
双体道祖神が迎えてくれます。
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墓参でもなく単なる散策なので、気持ちばかりのお賽銭を入れました。

碓氷川に面した聖明寺境内は断崖上にあって殆ど垂直。危ないので黄色いロープが張ってある。
まず素人目にも、南側からの攻めは無理かなと。
磯部城が遠望できます。じーっと睨みあってたに相違ない。
磯部城が見える.jpg
ここからなすびが見下ろせます。
なすびが見える1.jpg
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甲斐から来た攻城軍がなすびに本陣を置くとは思えないしそういう位置でもないが、なすびの敷地内を甲州軍の卒がウロウロしていたかもしれない。
お寺のご住職やご家族の方はなすびに飲みに行くのかな。

境内、墓地と竹藪の境界に土居の跡と、櫓台のような土盛があった。城域はここから西の竹藪一帯だがちょっと入れない。
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南側、碓氷川沿いは難攻不落の様相だが北側はどうか。
北側にも小川が流れていて目を凝らすと自然の堀に見えなくもない。水田地帯なのでおそらく湿地帯だったのではないだろうか。
北側の堀1.jpg
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この小川、行きつくところは碓氷川です。なすびから対岸をよ~く見ると東側に滝のような流が見える。それは後世に灌漑水を通したからだと思いますが、どうも西側にも滝があるらしい。
だから滝山と呼ばれる??

誰がいたのか?
これが不明。全くわからない。安中氏旗下の誰かが護っていたのでしょう。境内に寺の方がいれば訊いてみたかったのですが。
畑のオジさん.jpg
「なすび」の東隣に畑があって、地元の方が農作業をしていた。
私は軽くご挨拶をして、「目の前のお寺に安中氏の砦があったんですか?」
「さぁ・・でもこの辺りはそういうのがたくさんあるみたいだよ」
そう。たくさんあった。安中市は武田と上州一揆衆のボーダーだったからです。
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写真中央、森と森に囲まれた寺が滝山城で、川の対岸白い屋根がなすび。

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ではこれを再度、見てください。
別名らしいカッコ書きの下山城が二つ並んでいるぞ?(続く)
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源義賢って知ってますか? [隠れ郷土史]

今日は多忙なのでショート記事を急いでUPします。今日は上州にいたマイナー源氏のお話。

平家と比べて源氏は一族骨肉の争いが激しい。父為義VS長男義朝、他にも兄弟同士、従兄弟同士、叔父と甥、よく身内がそこまで殺し合えるなといった感がある。
何年か前の大河、タッキーが主役を演じた義経のワンシーン、宇治川の戦いで義経軍に敗れ、都落ちした源義仲(小澤征悦)が愛妾巴御前(小池栄子)を「生き延びよ」と諭す場面で、
「何処かで道を違えたか。。。あのまま木曾におれば。。。木曾から出なんだら。。。」
この期に及んでの後悔だが、あのまま木曾におれば。。。???
最初から義仲は木曾におったのだろうか。
木曽義仲2.jpg木曽義仲4.jpg
そうではない。義仲は駒王丸といった幼少の頃、埼玉県比企郡嵐山の大蔵という地にいた。そこを父義賢の甥、悪源太義平に襲撃され、15歳の従弟に父を討たれる。

義賢が悪源太義平に討たれたのは、源為義の長男義朝が相模、鎌倉から北上したのと、次男で異母弟の義賢が、武蔵や秩父の一党を糾合して南下する動きが衝突したもの。
義朝と父為義の関係はこの事件で修復不可能となった。
父、義賢を討たれた駒王丸こと義仲は、畠山、斎藤といった家臣の手引きで信州木曾に逃れる。そこで後年、木曾義仲になるわけ。

この甥が叔父を殺す戦闘シーン(大蔵合戦)は一昨年、画面が汚いの美しくないのと酷評され低い視聴率に喘いだ「清盛」でも少しだけ描かれたが、坂本浩之さん演ずる源義賢が、波岡一喜さん演ずる悪源太義平に腰が引けちゃってた。叔父が甥にビビって一矢も報えず、あっさり殺られてしまってハイお終い。
それが下記の写真、左に立って見下ろしているのが甥の悪源太義平。ひざまずいているのが叔父の源義賢。
この写真は、http://awayuki21.seesaa.net/article/269850579.htmlから管理人、藤次郎氏の許可を得て拝借致しました。
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幼少の駒王丸、木曾義仲も出なかったのは、マツケン清盛が大往生した後は一気に壇ノ浦までいっちゃったので、その過程、義経VS義仲のもカット。ストーリーとしての伏線として必要なかったのである。

義仲の父であっさり甥に討たれた義賢は京都にいた時はこのお方と男色関係にあったという説がある。
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まぁそれはどーでもいいや。義賢は何故、坂東に下向していたのか。これはソリの合わなくなってきた長男義朝への対抗馬として下向させたというもの。
義賢は終焉の地、武州大蔵に行く前は、吉井藩祖松平信平の謎で取り上げた上州田胡、現在の高崎市吉井町にいたのです。
http://funayama-shika-2.blog.so-net.ne.jp/2013-09-30

これは地元の伝承だけかというとそうでもなく、上州田胡を領地としたと何かの史料にも記載されていた。
この館は偶然、見つけました。道に迷ったんです。http://funayama-shika-2.blog.so-net.ne.jp/2013-01-18他に載せた店に行った帰りだった。
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館のあった場所は殆ど個人宅になっていてちょっと侵入するには憚られる感じだった。夏場だったので藪蚊がブンブンしていましたね。館を囲う土居の盛土が僅かに認められる程度です。
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義仲は挙兵した後、上野国の多胡荘は亡父の遺跡と思ってこの地を訪れたと案内板にあるが、果たしてそんな時間的余裕があったのかどうか?

義賢の享年は30台前半らしい。もっともっと生きたかったでしょう。
「何処かで道を違えたか。。。あのまま田胡におれば。。。田胡から出なんだら。。。」
とでも呟いただろうか。
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旧陸軍岩鼻火薬製造所跡 [隠れ郷土史]

群馬の森の周囲を歩いていると、アヤしい廃墟、建物が公園の周囲に幾つか散見される。
これらは一切が侵入禁止、立ち入り禁止である。
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群馬の森は昭和49年(1974年)、明治百年記念事業の一環で開園された。
明治百年という響きに何を感じますか?明治維新後の富国強兵政策が日清日露を経て昭和の大戦に繋がり、もうあの時代を繰り返さないという願いがあり、100年経っての平和維持への決意表明と受け取れる。
だがその半面、群馬の森開園事業の裏には、日本を戦争に突入させた軍部の”あるモノ”が秘められているのだ。

とはいうものの、この地を訪れる県内の人は皆、ご存じだと思う。詳細はともかく、ああ、あの公園には・・・程度かもしれないが。

この公園は、かつてこの地にあったものの多くが解体撤去されてその跡地に整備された。それは軍部の黒い霧とまでは言わないが、何だか後世に憚るものを感じる。
何があったのか。この森のある地域を岩鼻というのだが、群馬の森とそれに隣接する「日本原子力研究所開発機構高崎量子・応用研究所」、「日本化薬(株)高崎工場」、これらを含む広大な一帯には陸軍岩鼻火薬製造所という禍々しい施設があった。
正式名称は幾度か改称している。
明治15年(1882年)11月~「東京砲兵工廠岩鼻火薬製造所」
大正12年(1923年) 4月~「陸軍造兵廠火工廠岩鼻火薬製造所」
昭和15年(1940年) 4月~「東京第二陸軍造兵廠岩鼻製造所」
いずれもいかめしい名称である。本文中では「岩鼻火薬製造所」と統一させていただきます。
ここでは昭和20年(1945年)の終戦まで、黒色火薬、軍用火薬、民間用産業火薬、ダイナマイトといった火薬類を生産、保管、供給を行なっていた。アブない施設といっていい。

その一部が黒い柵で覆われた雑木林の中に、外来者の侵入を拒むように残存しているのだが、私には建物が招いているように感じた。
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 ↑ これは柵の隙間からカメラを伸ばして撮影したものです。決して柵を乗り越えたのではないので誤解のないようにお願いします。

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公園内南側の一画には、「ダイナマイト発祥の地」の碑がある。
その碑に刻まれた文言は難読と逆光で全文判読できなかったが、富国強兵、産業の振興、近代国家の確立、明治政府が火薬類の軍需民需急増に応える為など重々しい文言が刻まれていた。要は明治政府が諸外国列強と並び、諸外国からの脅威を撥ね退けんとして軍艦はもちろん、弾薬を国内で大量生産すべく起こした軍事政策の一環で建設されたのです。
明治12年(1879年)5月、薩長閥の大物たち、陸軍卿西郷従道(西郷隆盛の実弟)、海軍卿川村純義(薩摩)、陸軍参謀次長大山巌(八重に撃たれて負傷した人)が現地を視察している。彼らがここに決めたんです。
何故この地に置かれたのか。当時、明治の動力源は水運、水車だった。利根川支流の烏川、そのまた支流の井野川や粕川が流れていることが挙げられる。
後年、弾薬を運ぶ鉄路が敷設されるがそれは後述します。

ダイナマイトの碑、その他、史料から。
明治13年に建設が始まって15年に竣工、黒色火薬の製造を開始した。施設は増設、製造技術も革新されていく。
日本は西南戦争で国内の内戦が終焉し、それ以降は海を隔てた外国との戦争に突入するのだが、明治27年の日清戦争から黒色火薬を前戦に供給している。
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日露戦争中の明治38年12月18日、幾万人の血を流した旅順要塞攻防戦の終盤、東鶏冠山北堡塁に向けて日本陸軍が坑道を掘るのだが、そこに仕掛けられたのがノーベル社製のダイナマイト2300kgだった。これは外国社製だから当然、輸入品だが、このダイナマイトが要塞堡塁を大爆破して歩兵の要塞占領に至ったことで俄然注目される。
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加えて戦時中の鉱業用爆薬需要が増加したことで、ここ岩鼻火薬製造所敷地内にダイナマイト工場も建設された。ニトログリセリンそのものを製造するのである。

ダイナマイトの主成分ニトログリセリンは僅かの衝撃で敏感な反応を起こして極めてアブない。安定性や起爆性を保持する為に改良を重ねられたのが珪藻土ダイナマイトというモノ。史料によっては「明治38年岩鼻火薬製造所で珪藻土ダイナマイト製造開始・・・」とあるので、もしかしたら旅順要塞攻防戦の時にも使用されたかも知れない。
他にも膠質ダイナマイト(ゲル状のもの)が製造された。

火薬製造所は岩鼻の他にも、東京板橋、目黒にも存在したが、日本国内でダイナマイトを初めて生産したのがここ岩鼻なので、ダイナマイト発祥の地、日本で初めての国産爆薬製造発祥地、となっている。
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火薬、弾薬、ダイナマイト(爆薬)には凶々しい響きがあるが、現代でも活用されているのは民間の産業爆薬で土木工事や炭鉱用です。ハッパの発祥地と思えばいい。
だが爆薬大量生産を深く考え掘り下げると軍事爆薬に辿りついてしまう感はどうしてもぬぐえない。発明者のノーベルは安全な爆薬として発明したつもりだが、世界で多くの人名が失われる結果になってしまった。

ダイナマイトの碑文は結びに向かってこうある。
『昭和20年第二次世界大戦の終結による閉鎖に至るまで64年間ここで生産された火薬類は軍需の他民間需要に応じ我が国近代産業史に残した足跡は大きい・・・』
『群馬県は明治100年の記念事業としてこの地に群馬の森を開設し新しい時代の役割を担う地を計画する・・・(この辺りが判読できず)・・・この地にゆかりあるもの相計り由来を述べて建碑の記とした』
若い人たちは気に留めないかもしれない。だが製造所で勤務、携わった人々、OB、ご遺族にしてみれば後世に訴えたいものがあるに違いない。
それでも現代平和社会への刺激を避けたいようにも感じた。
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公園敷地外の黒い柵で立ち入りを禁じられているエリアに残るアヤしげで朽ちかけた廃墟、建造物は火薬工房の跡といっていい。現在は隣接する日本化薬(株)が管理している。

(日本化薬(株)という会社は日本最初の火薬メーカーらしいが、今は医薬品その他が主になっている。私は職場でオダインという抗がん剤を手にとったことがあります。)

興味を惹かれても黒い柵を乗り越えて中に立ち入るのは止めて下さいね。せめて5秒以内の反則で黄色いロープを越えて柵ギリギリまで立ち寄って見て欲しいのだが、朽ちかけた建物の周囲は高い土居で囲まれているんです。もしくは囲まれていたか。。。
土居を抜けるトンネル1.jpg
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工房らしき平屋の建造物が、土居に囲まれているのがわかりますか?
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公園南側のサイクリングコースに沿って残存している土居には工房へ抜けようとしているトンネルもあったりする。
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ダイナマイトや火薬類は処置を誤れば当然のように爆発するので、これらの土居は爆風を避ける為のものです。土居に植えてある木々もそうです。

土居の断面です。
遊歩道を通す為に後年、切り開いたもの。
土居の断面.jpg

となると、前記事のわんぱく広場、丘に上がったら四角い土居で囲まれた一画一画の意味もおのずとわかるというものです。私は製造された火薬類が保管されていた一画だと推定しています。
土盛で囲まれている1.jpg
土盛で囲まれている2.jpg

爆風除けの高くてブ厚い土居に囲まれ、工房内で作業していた人たちの日常、胸中は如何ばかりだっただろうか考えた。緊張を強いられ、閉塞感で息の詰まる日々だったと思う。
事故はあったのか。
無いとはいえまい。あったとしても闇に葬られただろうか。
ここで働いていた人たちは地元岩鼻村や滝川村等、周辺の村々の人々が多かったそうです。その人たちは自転車や徒歩で通勤していたという史料もありました。

東側の立ち入り禁止区画.jpg

公園東の無整備地区にはこんなのがあるぞ。
そこにも何かがある.jpg
何だこれは?.jpg
巨大な土管??.jpg
デカい土管?
水道管?
潜水艦の化け物みたいだが、さにあらず。散歩中の老婦人に訊いてみたの。
「何ですこれ?」
「ああ、これはねぇ。昔の自衛隊・・・軍隊の防空壕よ。昔、ここで爆弾作ってたの」
ハッキリ仰っておられましたね。ただ、防空壕といっても空からの爆撃から退避するものではなく、同じ敷地内での爆発事故による爆風から逃れる為のもの。そこが異色ですよね。
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「岩鼻火薬製造所」は終戦とともに解体される。
終戦前に米軍のB29によって偵察写真が撮られ、空襲標的にもなったが爆撃が実行されなかった。
敗戦時の敷居面積は1072500㎡だから東京ドームの23倍で、就労していた従業員は3956人、4000人近かった。

跡地をどうするか。現在隣接する日本原子力研究所開発機構高崎量子・応用研究所や日本化薬(株)高崎工場以外に払下げ先がなかったとか。
だから公園にしたのかも。別に珍しくない。横浜市青葉区奈良町にある「こどもの国」もそうです。あれは東京陸軍兵器補給廠田奈部隊填薬所という難しい名前の軍事施設の跡地です。田奈弾薬庫ともいいます。

惜しむらくはこれらの残存物が放ったらかしのままで何の説明書きもなされていないこと。現在休館中の博物館にも触れられていないようです。でも明らかにしたらしたでいろいろ差し障りがあるらしい。
壊すにも壊せない、整備しようにもできないこれらの旧施設は黒い柵で遮られ、そこから先は原則近づけません。囲った黒い柵は「施設に入るな」と言わんばかりだが、柵で閉ざされたアヤしげな建造物が草ぼうぼうの中から見えてるとやはり気になる。
柵は訪問者を拒むが、建物は何かを訴えたがっているように、訴えたい者が潜んでいるように感じるのだ。

私は理性が自重したので柵内には立ち入らなかったが、蛮勇を奮い、罰せられることを覚悟で中に入った人もいるようです。
ここに掲載した施設は公園と隣の境界ギリギリから垣間見えるものでしかなく、奥に入り込めばまだまだアヤしい建造物が眠っているらしいのだ。
この種のカテゴリは”廃墟”です。その筋のサイトを探してみたらもっともっと詳しいものに辿りつけます。オイオイ、ここまで入ったのかよ、っていうアブなそうなサイトもありましたよ。
心霊スポットと位置付けたケースもある。公園という場所柄、夜間は立ち入り禁止だが、夜回りでもしたら不気味でしょうがないだろう。昼間だって何かがこっちを見ているかのようである。

芝生広場に戻った。
いろいろ見ているウチに惹きこまれ、右足首踵の痛みも忘れてたのだが、平和な広場に戻ったらまたズキズキ痛み出してきたぞ。
芝生広場に戻る.jpg

青い空のもとで遊ぶ子供たち。
憩うお年寄りたち。
走り込むランナーやサイクリスト。
それを横目に見ながら歩く私はダークスーツ&コートに革靴、そんなカッコしてるのは私だけだった。知らない人が私を見たら、公園にそんなカッコして何しに来たの?と思っただろうな。

長閑で平和な「群馬の森」は平和の象徴である。だが全てを語っていない。周囲に眠るものを敢えて何もせず、見る者、訪れる者に無言で対比させ、語るでもなく放置してあるようだ。
都合の悪いものに蓋をして隠すのでもなく公開するでもない。見て察しろよと言わんばかり。だからそのまんまになっているのだろうか。
公園は年中無休です。4月~9月は7時30分~18時30分まで、10月~3月は8時00分~17時30分まで開園です。
群馬の森入口2.jpg

公園の出口に向かう途中で考えたのですが、ここで製造された火薬はどうやって何処まで運ばれたのだろうかというもの。
そしたら前々記事の踏切、単線鉄路を思い出した。。。(続く)
引き込み線?-1.jpg
途切れているぞ?.jpg
これはもしかして。。。???
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加賀大聖寺藩雪中行軍顛末記 [隠れ郷土史]

yossyさんのご先祖が加賀藩支藩、大聖寺藩の家中と知り、そういえば書棚に一冊、大聖寺藩が主役の書があったのを思い出した。
1999年9月10日に発刊された文庫本です。15年ぶりに見開いた。四十七人の刺客、四十七番目の浪士、島津奔る、を著した故・池宮彰一郎さんの作です。
受城異聞記1.jpg
私は大聖寺藩の現地を訪れていないので机上での検討しかできないがそこはご容赦。

宝暦8年(1758年)12月のお話。
岐阜県美濃郡上八幡藩の金森家が藩政不行届で改易になり、改易に繋がる事件(宝暦一揆)に関わった隣りの天領、飛騨高山の陣屋も公収することになった。
天領だから改易ではない。代官を更迭するだけで配下はそのまま公務に付いてて良いのだが、高山には廃城、高山城というのがあて、それも接収することになった。

誰が受け取りに赴くのか。
境を接する隣国の手勢を以て行うのが定法で、飛騨の隣だと加賀藩の支藩、大聖寺藩に白羽の矢がたった。行って接収して来いという出張命令が下ったのである。

当時の幕閣老中首座、堀田相模正亮が加賀本藩当主、前田重教(前田家10代、9代藩主)を呼び出し、高山陣屋と古城受取日は厳寒の1月1日というトンでもない期日を指定した。
旧暦である。現代でいうと1月29日くらいにあたる。地図で観れば隣領だが、大聖寺藩と飛騨高山の間には2700m級の白山がそびえ立っているのだ。極寒の山中へ分け入れと言われたのである。
加賀と飛騨の位置関係.jpg
大聖寺藩が槍玉に上がったのは理由がある。
藩主が飛騨守だからか?
そうではなく加賀大藩故の贅沢な悩みがあった。

大聖寺藩は加賀本藩三代、前田利常が三男に7万石で分知した藩で、同じく次男に分知されたのが越中富山10万石だが次男と三男の差の3万石がネックになり、家格に差がついてしまったまま歳月が過ぎている。
何でそんなことが気になるのか。単純に収入の差というのでもなく、大名家格のボーダーラインが10万石でそれ以上とそれ以下とでは江戸城中の扱い、例えば控の間とか、諸侯との交際でも格の上下で扱われ、対応が違って来るというのだ。大聖寺藩は肩身が狭かったのである。
この問題は加賀本藩の方でも気にした。大聖寺藩を10万石にもっていきたい、本藩の領土を分けても家格を上げたいという願い。支藩なんぞを持たない他藩から見たら他人事だが、加賀藩はそれを渇望し、五代将軍綱吉の頃から改元される度、もしくは幕閣の老中首座が交代する度に大聖寺藩の高直しを願い出ていた。
10万石と7万石、その差3万というビミョーさ。これが双方5万石か、5万石と3万石だったらこんな思いはしなかったかも知れない。

大聖寺藩は城はない。
館というか、陣屋だった。大聖寺藩主が休息した長流亭という建物が現存している。(HPから)
大聖寺藩主休息所長流亭.jpg

だが、飛騨高山を1月1日に受取って来いと峻烈な命を下した堀田正亮が老中首座に就任してからはその願いを遠慮していたらしいのだ。堀田正亮は自分の前任者、酒井忠恭と昵懇にしていた諸大名に意趣返しをするくらい底意地が悪かったと記載されていて前田家も睨まれた。
しかも大藩である。堀田正亮の心証は悪く、堀田の方から、「引き続き大聖寺藩の高見直しを望まれるのだな」と念を押されたうえで、その願いはOKでもNGでもないまま有無を言わせず飛騨高山陣屋接収の命令が下された。
これだと堀田正亮の意地悪だけで決まったみたいだが実は過去にも同じようなことがあった。元禄5年(1692年)、金森家は出羽国上山藩への国替えにより、高山城は加賀本藩の4代藩主、前田綱紀が預かっているのである。
ところが金森家は5年後の元禄10年(1697年)に美濃郡上に転封される。郡上と飛騨は離れてはいるが同じ岐阜県なので、何だか戻って来ちゃったみたいに見える。
何故、こんな無駄な引っ越しをさせたのか。
幕閣は飛騨の森林が欲しかったのだというのだ。だが金森家は戻って来た?郡上で、冒頭にあるような問題を起こしてまたまた改易される。その後始末を大聖寺藩が請け負ったワケである。
老中堀田も底意地が悪いが、周囲も加賀藩に好意的ではなく、大藩の我儘と見られてたのも事実であろう。

本文中にはこうある。
「富裕な大聖寺藩にて、高山陣屋と廃城高山城を接収願いたい」と。
冗談ではないよと。実際は富裕どころか、陽射しの少ない北陸地方の冷害に見舞われ、大聖寺川の氾濫や凶作続きで物なりが少なかったとある。
選ばれた損なリーダーが群奉行の生駒弥八郎という人。
この人が弁当を喰っているシーンがある。
250石の群奉行が七分三分の稗飯で、おかずは梅干と大根鉈割漬2片だけ。大聖寺藩は名うての貧乏藩と書かれていた。

だが逆らえない。大聖寺藩は山に詳しい郡奉行の生駒弥八郎をリーダーに、山方、郡方、郷方に通じた25人を送り込むことになった。城の接収で25人とは少な過ぎるが、大半は極寒の山中で脱落、凍死すると想定したうえでの最小限の選抜であった。猪突猛進型ではなく慎重な者どもを選んだという。

生駒はルートを模索し、なるべく大聖寺領内を通るよう選定した。途中8か所か9か所に事前に糧秣を配しておいて赤い幟を立てておいたのだが、一行は2ヶ所しか発見できなかったようである。
12月5日に出立した。

生駒弥八郎率いる大聖寺藩一行が越えたルートを地図上で辿ってみたのだが、加賀市の大聖寺を出立して国道8号線沿いに那谷寺(なたでら、小松市那谷町)に向かい、県道8号線沿いに東南方向の山を目指し、小松市赤瀬町の赤瀬ダム北にある荒俣境に分け入ったと思われる。
そこから先は山道。赤瀬ダムの南西にある動山(604m)の麓をぐるっと廻り、大杉峠を目指したとあるが・・・
一行はここで吹雪に遭い道に迷った。
吹雪の山道.jpg
荷もろとも落伍者、滑落者が続出する。犠牲者はうち捨て、行方不明者や荷を積んだ橇は二重遭難になるので捜索できなかった。

私も机上で探したが大杉峠が見つからない。大聖寺藩と金沢本藩の境界らしいのだが、地図で見ると石川県小松市と加賀市の境に大杉町が延々南北に点在している。小松市丸山町との境目、牛ヶ首の辺りに43号線の九十九折の峠道っぽいのがあるがその辺りだろうか。
大聖寺藩一行はそこから大日川の渓谷に分け入り、手取川の上流から白山に踏み込んだようだが現代の地図で見ても凄そうな山々である。
手持ちの食料も少なくなる。接収なので本来は軍装で行かなければならないのだが、積んでいた甲冑、具足、槍、鉄砲、旗指物は食料や灯油、酒類の大半もろとも失った。
そこから先、どうやって白山を越えたのかそのルートは全くわからない。積雪、猛吹雪、地吹雪、冷寒地獄、雪濠、断崖、渓谷、稜線、疎林の急斜面、運次第、寒気、疲労、睡眠不足、凍死といった語が次々に出て来る。
艱難辛苦の末、僅かな生存者はかろうじて1月1日に飛騨高山に辿りつく。間に合った。
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だが、そこで見たものは何か。
25人中、生存者は何人だったか。

大聖寺藩首8代利孝(トシヤス)は文政4年(1821年)、念願だった7万石から10万石への高直しを行った。
その差3万石は新田開発1万石、加賀藩からの支援が2万俵という内訳であったが、加賀藩の1俵は5斗で、10斗で1石だから2万俵は1万石に相当します。1万石の米は領地2万石に相当するというわけ。
何だか無理くり捻出したようだが、城持ちでない10万石の藩は異例だったようである。
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決してハッピーエンドではない重たい本です。
大聖寺藩家老の名前で、前田靭負、佐分儀兵衛という名が散見されます。
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足軽屋敷は一戸建 [隠れ郷土史]

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諸藩は軍役の原則として、幾人の武士を抱えていたのだろうか。
大雑把に見積もって、1万石につき250人という数字がよく知られている。慶安の頃に定められた軍役規定だと5万石で士分281人、足軽352人、その他(小荷田、槍持ち、鎧持ち他)342人、計975人だという。
では大藩の加賀藩だとおおよそ100万石だから単純計算で25000人かというとそうでもないのだ。規定の比率だと102万石の金沢藩の場合は士分5733人、足軽7181人、その他6977人、計19891人となるが、明治元年に士分7077戸、足軽以下が9474戸、合計16551戸という数字が残っている。
士分が超過していて、足軽以下が足りないが、これには足軽より下級の“その他”が含まれていないからかも知れない。明治2年の「士族・卒族等人口戸数当調帳」には5382人いたという。士分も多いが足軽も多いのです。
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加賀藩は大藩だから裕福だったかというとそうでもなかったようである。小藩には小藩の、大藩には大藩なりの台所事情があった。
武士階級の収入は米に依存するから米の値段が下がれば収入が下がる。それでも大藩だけに家格を維持する為や諸物価の高騰に合せて出るものは出る。
だから三大お家騒動の一つ、加賀騒動みたいなのが起こったりするのだ。あれをデッチ上げと書いたのは故・海音寺潮五郎さんだが、あの騒動の要因は本田家他、万石クラスの家老たちの合議制に反発した六代、吉徳という殿様が藩主独裁体制を進めようとしてコンビを組んだ側近、大槻伝蔵が足軽出身だった為である。
大槻伝蔵は鉄砲足軽の三男坊だが、他藩の足軽は長屋住まいだが加賀藩は大藩だけあって足軽といえども立派な一戸建てだったのだ。
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長町武家屋敷のちょっと先に足軽資料館というのが2棟あって、木造平屋建、石置き板葺の平入り切妻造りの家を高西家と清水家という。
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清水家の説明.jpg
幕末に4607戸(維新後に卒族とされた戸数)、加賀藩直属の割場附足軽や定番附足軽と人持組、藩の上層部の家々が抱えた足軽の住宅は2689戸もあったので、加賀藩の武士数で最も宅地数が多いのが足軽たち。今あるのはそのうちの2つで、平成6年頃まで子孫が居住していたそうである。
この足軽資料館では合計5382家となっている。士分の数は5579家。
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なかなか立派な平屋である。
入ると廊下はなく、玄関から座敷に続く部屋と、台所や茶の間、納戸(寝室兼?)の生活部屋が並列した間取りになっている。しかも庭付きである。庭といっても屋敷の周りに土塀ではなく生垣を回し、内側の庭は野菜や果物の実る木を植えていたので、陽気のいい日に縁側に座って庭を観賞したりすると為ではなく、自給自足で喰う為の実益用スペースだった。
小物や女中、中間はいない。家族だけで住んでいた。
足軽の住居説明1.jpg
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俸給の半分は主食.jpg
足軽の給料は安かった。
足軽の年棒(給与)はわずか25俵で年2度、12俵を春に、13俵を暮に支給された。切米という。切手を貰って必要な時に米やお金に換える。
当時の人々は現代人より米を多く食べていたと思うが、ひとり当たり年間米消費量が2俵、1家4人で8俵、6人だったら12俵、俸禄の半分が主食費で消えてしまうのだ。
米1升が32文、現代の物価だと640円。米1合×10倍が1升。1升×40倍=1俵として640円×40=25600円だが、それの30倍だと年収80万にもならないじゃないか。現代の給与に換算すると幾らの年収かちょっとわからないが、主食だけでは生きていけないので非番の日には家族揃って内職に励んだ。
幸い住居はお上からの拝領なので、家賃というものはなかったようである。
足軽の職務.jpg
足軽は本来は軍事組織に連なる歩兵なので、日ごろは武術の修練、弓・鉄砲・刀槍の稽古に勤しんでいたが、武術の訓練以外に警備、工事場の人足、他、文官としての様々な雑務のサポートや、江戸や上方への飛脚、または情報収集などの役目があった。
隠密みたいなのもあったかも知れない。または、足軽といえどナメんなよと密かに秘剣を伝える家系や、藩主直々に上意討ちを仰せつかるお闇討ちの家系とか。。。(時代小説の読み過ぎかな。)
江戸詰めは楽チンだったらしいです。国許にいるとあれやこれやコキ使われたそうです。日常、殆どが職務と内職、武道の訓練だったが、時間を割いて漢学、史学、計算といった勉強もしていた。
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足軽は殆どが世襲だが、足軽株のような権利があり、売買によってその職に就くこともできた。定員があって原則それ以上は増えないんだと。大相撲協会の年寄株みたいなもんだろうか。
お金次第で.jpg

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あったあった加賀騒動の主役、大槻伝蔵の説明がちょっとだけ。
確かに大槻が20俵25俵の世界から、4000石近い高禄の上士まで成り上がったのは周囲からは異様な昇進に見えたに違いない。
大槻がやった改革そのものはこの時代なら何処にでもよくありそうなプランで、それで財政悪化が止まりかけたはいいが劇的な黒字には転換しなかった。加えて異例の抜擢、早過ぎる昇進、頻繁に与えられた禄高加増が続き、成り上がりだけに抵抗勢力が多過ぎ、既得権を奪われた門閥派の重臣たちや、倹約奨励で窮屈な制限を課された保守派の家臣たちに弾劾され、吉徳が病死した途端に失脚した。
主君吉徳を弑逆したの、吉徳の側室だったお貞の方(真如院)と密通証拠の手紙が出てきたの、イロんなスキャンダルが浮説しているが、列藩騒動録や悪人列伝では、それらは全て○○○○守のデッチ上げた疑獄と言い切っている。
だが地元金沢で擁護するものは見当たらなかった。
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お座敷へ.jpg
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割と広いです.jpg
こういう家々が組毎にギッシリ立ち並んでいた。団地といってもいい。坪数に規定があって平足軽が・・・確か50坪だったかな。その敷地内に10~25坪ほどの平屋が建っていた。今の間取りだと4Kか5Kといったところではないかな。
「なかなかいい家じゃねぇか」
「・・・」
「贅沢な平屋がいいって前に言ってたっけか」
「・・・」
「角部屋でないので若干、暗いな。左右から外の陽射しが入ってこない」
「・・・」
「ウチより広いぞ」
「そんなことはないっ!!」(ジャン妻)
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利家公の履歴書~金沢藩余話 [隠れ郷土史]

尾山神社2.jpg
金沢を散策して未だ初詣に行ってなかったのを思い出したぞ。
いつも行くのは富士宮市の浅間神社。いずれ行く予定ですが、その前に金沢市内を散策中、規模的にちょうどいい神社を発見した。
尾山神社。どなたを祀っておられるのかと解説版を見たら、前田利家公とおまつ殿でした。
境内に利家公とおまつ殿の像がある。
お松の方像2.jpg
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贅沢なお願いはしません。
家内健康安全を祈願しました。
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加賀藩主二代目の利長は父利家を神として祀ろうとしたが、大藩の外様大名なので幕府から睨まれているのはわかっている。大っぴらにできない。
東照宮に家康が神君として祀られているので憚りもある。まさか加賀大明神とかハデに祀るわけにいかず、最初は金沢城内に遠慮がちに祀った。別の場所にあった八幡社を勧請(神霊を分けること)して合祀(合わせて祀ること)した。尾山神社の創立許可が出たのは幕府が瓦解した明治になってからだそうですよ。明治6年(1873年)3月、前述の目立たぬよう城内に祀ってあった利家の神像を遷座した。
ご神信は誰?.jpg
秀吉に天下を取らせたのは黒田官兵衛なんてノリの平成26年だが、それは官兵衛よりも前田利家ではないだろうか。
賤ヶ岳の戦線離脱が秀吉を信長の後継者たらしめる重要なポイントだったと思うのです。利家を弁護するなら、北陸方面の司令官だった柴田勝家の家臣ではなく寄騎だったこと。(※)
家臣なら裏切りだが、寄騎というのはその方面の主将の軍団に戦略上の増援目的で付けられた幾つかの軍団集合体の一将です。利家以外にも佐々成政他、不破、金森、蒲生といった寄騎が10人以上いた。

軍団は戦線が終結したら解散、寄騎も寄騎でなくなるが、信長の横死によって北陸線戦は休戦状態になっていた。その間に勃発した右大臣信長の後継者争いに巻き込まれた場合、どちらに付くかは家臣ではないので勝手次第ともいえる。
(※賤ヶ岳の秀吉側でいえば中川清秀や高山右近もまだその時は寄騎だったんじゃないかな。)
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利家は天正9年(1581年)に能登一国の国主になっていて七尾城にいた。
地理的に見たら柴田勝家寄りでなかなか旗幟鮮明にできなかったのはわかるが、それでも賤ヶ岳に幾千の軍団を連れて陣を張っているの、小早川秀秋のように攻めかかってはいないが、まぁ消極的な裏切りには違いないかも。
(小早川秀秋も毛利の家臣ではないぞという反論が聞こえてきそうですが、秀秋は秀吉の養子ですぞ。松尾山を下って西軍に攻めかかった秀秋は裏切り、寝返りの印象が強過ぎるのだ。)

「アナタは利家はどーなの?」
どう思っているの?という質問です。そういえば、あまり前田利家で会話をしたことがないな。
「賤ヶ岳でサッと兵を引いたからなぁ」
「アナタは勝家寄りなの?愚直な、愚直な、あの愚直な。。。」
何を言ってやがる。そうそう亭主を愚直愚直言うものではないぞ。秀吉とソリが合わなかった勝家は近年、見直されてつつあるのだよ。
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「利家とまつ」は見なかったので賤ヶ岳の撤退がどう描かれたか知らないのだが、秀吉と勝家双方と昵懇にしていた利家も迷い迷って陣取ったのであろうか。
後年耄碌しまくった秀吉が死んで、内府(家康)に対抗できるただひとりの人物と目され、病魔に蝕まれた体躯を引き摺って内府との会見に臨む姿は悲壮、凄愴感が漂う。
豊家関係者やファンは後年、利家さえ後数年生きていればと思っただろう。だから賤ヶ岳で撤退したことはあまり言われないのでしょう。
前田家は生き残った、勝った者はその後を編纂し、賤ヶ岳の辺りは曖昧にされたともいえなくもないが、良い意味で上手に生きた利家公がご神体なら、贅沢さえ言わなければ願い事は叶うでしょう。
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利家公が藩祖、金沢城です。
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加賀は大藩である。
諸侯最大の102万5000石、越中富山、加賀大聖寺の支藩を合わせると120万石を超える。小松城と併せて一国二城、外様の藩では別格扱いだった。支藩、城代が多いのも他藩と違うのがわかる。
家臣の数も多い。
加賀八家、もしくは前田八家という年寄(人持組頭)を最高に、上士身分の人持(ヒトモチ)70家、平士1400家、平士並(数不明)、与力300家、御徒300家、御徒並400家、そして足軽5000人。。。
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筆頭家老は家康の傍で策謀を巡らす本田正信の二男、政重から続く本田家です。
この家は幕府から派遣された目付、監察のような位置づけもあったようで、この家が最高禄で5万石。
他の7家も、能登畠山の旧臣で七尾城にも立て籠もった長家、この家は穴水城主で3万3000石。
富山城代の横山氏が3万石。
藩主一門で越中守山城代の前田対馬守家が1万8000石。
末森城代の奥村河内守家が1万7000石。
松根城代の村井家が1万6500石。
奥村内膳家が1万2000石。
前田利家の二男系列で小松城代の前田土佐守家が1万1000石。。。
大大名の家中に小大名クラスが8人もいたようなものである。
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人持組でも1万石クラスが4家、8000石~5000石クラスが11家、5000石以下が24家ほど確認できた。
その中にはいろんな連中がいて、前田家の閨閥に属する家々、旧織田家の家臣、織田有楽斎系の流れ、旧徳川家の家臣で出奔した者、越前朝倉氏の旧臣、上杉景勝の次にいっとき春日山城主だった掘秀政の弟の係累、かつて藩祖利家と一緒に柴田勝家の寄騎だった不破家の末裔、さらさら越え佐々家の旧臣、関ヶ原で小早川秀秋につきあって土壇場で寝返った4将のひとり赤座直保の子など様々な履歴書をお持ちです。

でも門閥中心の藩政治だったと思う。だから大槻伝蔵のような加賀騒動も起きたのだろうか。
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金沢城は復元工事が進んでいる。明治維新後に陸軍の連隊や師団司令部が置かれたり、金沢大学の敷地になったりしたので、公園化事業は平成になってからです。

城内が広く、吹きっ曝しで寒いので休憩所に入ったら、イロんな説明版があって、そこにこんなのがあった。
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上州七日市藩!!
おおっ、あったあった。名前だけで詳しい説明はないが、利家の五男、利孝の家系です。
私は七日市の陣屋前を数回、社用車で走ったことがあるが、地元高校の敷地内なのでちょっと立ち入れなかった。旧道なので停め難かったのもある。
七日市藩は城ではなく陣屋で、金沢城内とは比較にならない。たったの1万石です。あまり裕福な藩ではなかったらしい。
金沢本藩の一行は参勤交代時に立ち寄ったという。本藩からの援助もあったろうが、本藩が立ち寄った時は行列一行を宿泊させててんやわんや。旅館に泊まるのと違って宿泊費用は七日市藩の自前だったに違いない。やはり本藩は支藩より威があるものなのだ。
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余談ですが、このダダっ広い金沢城公園で昨年12月10日未明にクマが現れたそうである。
クマは城内の一部でもあった尾崎神社で目撃された。宮司さんが就寝中に警報機が鳴ったので外に様子を見に出たら、体長1mのクマがいた。クマは柵を越えて逃げた。
110番通報があった地元警察官や地元猟友会がクマの足跡を確認、その後、隣接するここ、金沢城公園内でフンが見つかったという。
だがその後、クマは見つからなかった。金沢城公園、兼六園は10日は閉鎖されたが、捜索しても見つからなかったので11日に開放された。
このネタはジャン妻には黙っていた。喋ると堪え性が一挙に失われると思ったの。挙句にホテルへ帰るだの、何処まで歩くんだの、せめて喫茶店でコーヒー飲ませろだのグダグダ言いだすに決まってるからね。
案の定、そろそろ飽きてきたらしく、「まだ何処かへ行くの?」
「足軽長屋が見たいのだよ」
「足軽ぅ??」
行ってみたら長屋ではなく一戸建てだったんですよ。さすがに大藩だけのことはある。
足軽屋敷~清水家.jpg
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兼六園異聞 [隠れ郷土史]

昨年、金沢へ初めて来た時、ジャン母に「兼六園は行ったの?」と聞かれ、「行ってない」と答えたら、「金沢まで行って何故兼六園を見なんだの」と呆れられた。
それを見ずして他に何を見たのかと執拗に問われ、七尾城、くるまで走れる砂浜、近江町市場、と答えたのだが、「兼六園を見なさい」と命令口調で言われたものである。
観光嫌いで歩きたがらないジャン妻も、「今回は行かないとね」肚を括ったようで。そんな決意声明が必要かねぇ。。。

日本三大名園、兼六園、偕楽園(水戸)、後楽園・・・恥ずかしながら私、後楽園っていうのは文京区の何処かにあると思ってた時期があった。それはともかく、兼六園は最初っからこんな広い庭園だったのではなく、延宝4年(1676年)に五代藩主の前田綱紀という殿様が作り始め、歴代の藩主がいろいろ追加したり広げたりして十三代藩主前田斉泰(ナリヤス)が現在ある形に完成した。
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広い庭です。
こういう庭は大藩、雄藩だけにできる趣味ともいえる。でもまぁ作ってしまえば維持管理修理費が多少はかかるにせよ、殿様道楽のヘンな遊興で藩費を浪費するより遥かにいい趣味ではある。
でも兼六園は後楽園や偕楽園と違い、最初っからこれだけ広大なお庭を作りましょうと意気込んで作られたものではないらしいのだ。
兼六園の水は何処から引いているのか。
辰巳用水という人工河川だという。取水場所は市の西南にあって、上辰巳という地から兼六園まで11km、途中トンネルもあるそうです。
だが殿様の趣味、庭の池に水を引く為だけにそんな大事業をするだろうか。
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後でUpする金沢城で年表を見たら、「随分、火事に遭っているのね」(ジャン妻)
金沢城は度々火災に見舞われる城で、兼六園の池を満たす水は、城内城下火災発生時の防火用水が発端だったという説がある。
慶長4年(1599年)落雷で天守が焼失。
寛永8年(1631年)寛永の大火で本丸等が焼失。
辰巳用水はこの翌年に引かれている。それでも火災が発生していて、
宝暦9年(1759年)に宝暦の大火。城内大半が焼失。
文化5年(1808年)に二の丸御殿が焼失。
明治になってからも14年(1881年)に二の丸から出火している。明治14年はまだしも、それ以前の約200年で4回の出火を多くみるか、そんなもんだろうと見るかは諸兄に委ねますが。大藩だけに目立つ。
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私らは兼六園を真弓坂口から入ったが坂を延々上るんです。庭園だから池ぐらいは当然あるだろうけど、何で高台にわざわざ庭園を造ったのかなと。
それは、もとは金沢城の外郭だったからです。

兼六園券六園内の高い位置に霞ヶ池があって、その先からは城下が見下ろせる。兼六園のある高台に水を引いたのは、城下に水を落とす高低差が必要だったからではないか。
では城下を見下ろすくらいの高台に水を引くにはどうすればいい?川の上流、金沢城や兼六園よりもっともっと高いところから水を延々引くしかない。
兼六園の池の水は殿様のお庭趣味の為ではなく、城下で出火した際の消防用水の為、高台から水を落とすのが当初の目的だったのではないか。庭園は後から付随するように出来上がった???
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防火用水を引いたついでと言っては何だが、せっかく水を引いたんだから池を作り、噴水を作り、滝まで作り、雅やかな庭になり、その水は城下に流して城の堀の水になった。今ある金沢城下の瑞々しい姿は、城まで自然に水を引く為の過程で歴代の藩主、特に雅やかな趣向を持った藩主や、土木技術に関心があった藩主たちが投資して現在の形にほぼ出来上がった。。。
(城下には辰巳用水の他に大野庄用水と鞍月用水があります。)
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私は公園の美、そのものを楽しまずに、モノができあがった背景、経緯、隠されたものをジロジロ炙りだすのが好きだが、ジャン妻は兼六園については、「義母さんへの義理を果たした」程度のものらしい。

残雪が残り、園内はそぼ降る雨で足元がグチャグチャ。でもこの時点ではジャン妻は、「早くホテルへ帰ろうよ」とは言わなかったのだが。。。
そのウチ、それがカオに出るは必定である。。。
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鎌倉ハム異聞 [隠れ郷土史]

前に呟きⅠでよく登場したTさん(肉子さんと呼ぶ)という小柄小顔の美人な若主婦はお肉が大好きで、
「前に、やっぱお歳暮はハムだよ、ハムにしましょうよ~って言ってたよね」
「お歳暮じゃなくってお中元だよ」
「何でハムなんだよ?」
「ハムったって薄く切る前のハムだよ」
「結局、自分も喰いたいんだろ」
「うん。○○さん(私のこと)、アタシにハムちょーだい」
「何で俺が・・・朝から焼肉喰ってんじゃないの?」
「朝はハム、ソーセージ、ベーコンだよ・・・」
この子は日本のハム発祥のいわれなんか知らないだろうな。
それが鎌倉ハムです。
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現在、鎌倉ハムは富岡商会さん他、幾つか名乗っておられるようだが、発祥地は鎌倉市ではない。
横浜市戸塚区柏尾町です。だが明治の頃の戸塚区柏尾町は鎌倉郡だった。だから鎌倉ハムと言っても決して間違いではない。

そのハム工房跡と伝わるものが横浜市戸塚区柏尾町にある。
場所は渋滞で有名な不動坂バス停の裏手にあるレンガ造りの建物がある。これが明治初期の鎌倉ハム製造業工房、日本人によるハム製造の最初の工房です。
明治時代、斉藤角次郎さんという人がいて、英国人ウィリアムカーティスという異人さんから製造法を知り得て日本人でハム製造会社を設立した。
だが日本で初めてハム製造を始めた英国人ウィリアムカーティスの前歴は謎でよくわからないのだ。
ハム工房跡1.jpg
近年、ドブ板がなくなって再開発された戸塚駅西口の商業施設、トツカーナ地下1階にお肉屋さんがあって、「肉のさいとう」という有名なお肉屋さん。再開発前は旭商店街の一画にあった。
さいとう1.jpg
さいとう2.jpg
さいとう3.jpg
この「肉のさいとう」・・・斎藤さんという姓が鎌倉ハム発祥の人と同一家系なのか裏付けが取れなかったのだが、今なお残る柏尾不動坂の鎌倉ハム工房跡地に隣接して同姓がある。店舗案内も無造作に貼ってあったのでまず間違いないと思う。
http://www.city.yokohama.lg.jp/totsuka/tmtnl/003.html
おや?.jpg
凄い屋敷である.jpg
有名だが謎の英国人ウイリアムカーティスが創業したハム製造業の工房はこれではなく、ここから遠くない王子神社(護良親王の御首を洗って埋葬したと伝わる。)近くにあった。
カーティスが忽然と現れてこの地ででハム製造を始めたのには幾つかワケがある。
何故、この地に作ったのか。
横浜は西欧文明が入って来た地だから???確かにそうだが、それは理由の理由の理由に過ぎない。
ハム工房跡2.jpg
カーティスはここに来る前は横浜の外国人居留区にいたと思われるが、当時の外国人は日曜日になると馬で、馬車で東海道を散策し、鎌倉や江の島方面まで出かけていた。
その過程で旧東海道の権太坂を越えて戸塚の地に通りかかり、横浜から近い内陸部の柏尾村に豚を飼育するのに丁度いい環境、広さがあったというもの。近隣農家から豚のエサになる薩摩芋の屑が得やすいというのもあった。
水も豊富だった。
だがそれらもこの地にハム工房を作った理由の理由でしかない。ホントの理由は日本人女性が絡んでいる。

戸塚宿の外れ、吉田元町に茶店があって、その店に加藤かねという美貌の娘さんが雇われ女中をしていた。当時、40台だったカーティスがこの茶店(茶屋ではない)の看板娘、加藤かね当時19歳に懸想したというもの。
度々来店するカーティスに加藤かねも惹かれた。逢瀬を重ね、親は猛反対したそうだがそれを押し切ってカーティスのもとへ走り、柏尾に家を建てて住み始める。
住んだ家は増築を重ねて外人専門のホテルを創業した。
何でこの辺りにホテルなんぞを作ったのか。まだ東海道線が開通しておらず当然、戸塚駅もなかったからか・・・
これだけでは理由づけとして弱いですね。ちょっと詳しい理由はわからない。東海道を歩いた時代、戸塚宿は最初に宿泊する街だったからだろうか。
ホテルの名前は「異人館」「白馬亭」だったそうである。

前述の王子神社近くの窪地に牧場を作って牛やら豚やらを200頭も飼育し、加工場を新設してハムやバターを製造し始めたのが鎌倉ハムの起こり。
凄い財力である。カーティスは俄か成金なのか。英国は薩長新政府に協力した国だからその筋で利権や資金を得たのだろうか。推測の域を出ない。
王子神社周辺.jpg
上の航空写真は現在の王子神社周辺です。この界隈は県営柏陽台団地や住宅地に開発されているが、まだまだ緑も残っている。
すぐ近くには柏尾川が流れている。川の流れは今と違うかも知れないが、瑞々しい郷で、農業や畜産に適していたかもしれない。この何処かにカーチィスさんの牧場があって牛豚が飼育されていたのでしょう。

工房で雇われていた使用人はALL外国人だった。10数人程度いたという。商品は外国人街や山下町で外国人相手に売られた。
戸塚図書館史料にはこうある。近隣の村人にある噂が広まった。ここで作られて売られたハムは、「木箱一杯で100両ほどになる」というもの。
村人は製造法を知りたがった。良く言えば自分らで製造産業を興したいという願いだが、悪く言えばやっかみであろう。だがカーティス以下の外国人使用人は頑として教えようとせず、製造場に村人を絶対に立ち入らせず、薬品にも手を触れさせないよう目を光らせた。警戒したのである。

ここで前述した斉藤角次郎さんが登場する。
斉藤家は代々村の庄屋だったが、斉藤角次郎は牛豚の飼育係としてカーティスに雇われていた。現在のトツカーナ、「肉のさいとう」のご先祖さんと思って間違いない。
カーティスのもとに走った加藤かねは斉藤家の奉公人だったという。そのつてもあって斉藤角次郎は加藤かね女史の取り成しもあってカーティスの信用をまずまず得た。作業場の鍵を預かるようになり、工房に自由に出入りを許されたのでハム製造の秘密を掴むことができたというもの。それは塩、砂糖、胡麻で味をつけ、硝石で肉の変色をとめて燻す方法、燻製のようなものだった。
謎の英国人カーティス氏.jpgかねさん.jpg斉藤各次郎氏.jpg
斉藤角次郎は仲間と明治14年にハム製造会社を興す。これが鎌倉ハムのホントの発祥で、現在残るレンガ造りの建物は当時の工房の一部だという。
ハム工房跡3.jpg
冷蔵庫の無い時代なので夏場は休業状態。それでも儲かった。日清戦争後に売上が増大したのは海軍が力を得たからではないか。当時はハムとは呼ばず熏脂、熏豚肉とか呼ばれていた。難しい漢字だが、燻製の肉という意味でしょうな。

現在、鎌倉市岩瀬にある株式会社鎌倉ハム富岡商会はこう語っている。
鎌倉ハムは明治7年(1874年)にイギリス人ウィリアム・カーティスが神奈川県鎌倉郡で畜産業を始め、横浜で外国人相手に販売を行っていたが、明治10年(1876年)に現戸塚区上柏尾町でハム・ソーセージなどの製造を始めたことに端を発する。
明治17年(1884年)に起こった地震の際に工場が出火し、消火にあたってくれた近隣住民に恩義を感じ、カーティスは益田直蔵らに秘伝の製法を伝授した。またカーティスの妻かねが奉公人時代に世話になっていた地元の名家・齋藤家の当主にも製法を伝授した。
齋藤家は不動坂(戸塚区柏尾町)にレンガ造の蔵や表門、土蔵、母屋などが残る。明治20年(1887年)にハム工場を設立し、鎌倉ハムを創業した。しかし、大正12年(1923年)の関東大震災で大きな被害を受け、その復興の中、先々代社長の高橋照之助により、地のりのいい東海、関西への進出を考え、大正13年(1924年)、名古屋市に進出した。
戦後になって、昭和21年(1946年)に、アメリカ人の貿易商、J・D・ミラー氏との共同経営を受け入れ、鎌倉ハムJ・D・ミラー商会として復興をすることになった。その後、昭和30年(1955年)に株式会社鎌倉ハム(名古屋市)になっている。
鎌倉ハム富岡商会の創業者・富岡周蔵は、大船駅が開業した明治31年(1898年)に駅構内での営業申請を出し、大船軒を始めた。翌明治32年(1899年)には、その後延々と販売され続け大船軒の定番商品となるサンドイッチ弁当を発売した。このサンドイッチ弁当は、サンドイッチの一般化にもつながり、また関連事業として鎌倉ハムの製造販売を行う鎌倉ハム富岡商会の設立(明治33年(1900年))につながった。大正2年(1913年)から発売している鰺の押し寿司も大船軒の定番の駅弁である。
鎌倉ハムのブランドは、このほかに、益田氏の流れを汲む鎌倉ハム(横浜市南区)、鎌倉ハム村井商会(横浜市瀬谷区)、鎌倉ハムクラウン商会(横浜市磯子区)、鎌倉ハム鎌倉クラシコ(熊谷市)が使用している。
レンガの壁と窓.jpg
伝授されたのは富岡商会の祖、益田家と、地元の斉藤家だと。ウチが本家とも取れる反面、斉藤家他、枝分かれした他家にも気を遣ってるように感じる。
他にも会社を興したのは斉藤角次郎の息子、満平だという異説がある。柏尾の鎌倉ハム工房は吉田元町に移転してまた柏尾に戻った経緯もあるのでその時に新たに興したのかもしれない。

私はこの逸話、何か見落としていないか、隠されている秘事はないか気になった。現在の富岡商会さんも触れているが、カーティスの工房が明治17年(1864年)の火災で消化にかけつけた近隣住民に恩義を感じ、ハム製造法を伝授したというが・・・
私はこの火災の際にカーティスが「ハム製造方を盗まれた」、もしくは「見られた」、「売り渡した」とハッキリ記載された史料を子供の頃に見た記憶がある。
その時の記憶が気になってジャン実家の書棚をガサ入れしたら、出典はこの本だった。
学校教材.jpgハムの頁から.jpg
これは昭和48年に横浜市教育委員会が発行、横浜市郷土教育委員会編集の学校教材で、昭和48年だから小学校高学年の時だと思う。教科書とも違っていて、必須ではなくサブ教材だったように記憶している。
この教材の76頁から、「工業の発達」という大分類項目で、現在の石川町にあった横浜製鉄所、南区万世町にあった日本で最初の石鹸工場の次、79頁に「ビールとハム工場」とあって、山手のビール工場の次にカーティスのハム製造について触れられている。
そこには、『わが国で西洋野菜をさいばいしていたカーチスは。。。』 。。。カーティスではなくカーチスとなっているが唐突に現れる。
『カーチスはハムやバターのつくり方を知っていた。明治十年、戸塚でホテル業をしながらハム製造をはじめた。ところが、つくり方をひみつにしてだれにも教えてくれなかった。この工場が火事になったとき、これを消し止めたふたりの使用人が、塩づけにしたぶた肉や薬品のことをつきとめた。ハムの製造法をぬすまれたと知ったカーチスは、明治二十年、斉藤満平に製造法を売り渡した。満平は柏尾に工場をたてた。』
斉藤満平は斉藤角次郎の息子ですね。

ここでは小学生対象の教材とはいえ、横浜市教育委員会が監修した上で、「ハムの製造法をぬすまれた」とハッキリ言いきっているのだ。日頃っから探ろうとした側(使用人)が、火事を消し止めた際に消火現場を見てアッサリつきとめたのだろう。
ハムに限らず工業技術ってのは盗まれるものだが、セキュリティが無い時代とはいえ、火事やぬすまれたという表現は穏やかではないし何やらアヤシイニオイがしないでもない。当時のしたたかな英国人の商売人が無料で譲渡したとは思えないし、そこは金銭が動いたであろうよ。その辺りは大人のビジネスということで敢えてこれ以上は触れないでおく。

その後、カーティスと加藤かねはどうなったのか。
明治20年頃に東海道線が開通して汽車が走り、戸塚に駅ができるともう東海道を馬や馬車で散策する人も減り、ホテルが左前になって傾いた。前述のようにハム製造法も売り渡したのもあってか、明治23年頃、借財を残したままカーティスは上海に渡った。
加藤かねも借財、家財を整理して2人の子供を連れて後を追ったが、日本を去って上海に渡ったウイリアム・カーティスの晩年と、後を追った加藤かねのその後はよくわからないが、二人とも渡航した地で亡くなったそうである。

鎌倉ハムは、創業の斉藤さん富岡さん他にも、益田、藤岡、板島、岡部、小泉、清水、富岡、どんどん拡大していく。
現在ではカーティスが飼育していた豚飼育も県内でブランド化され、県内で売ってる高座豚、綾瀬豚もその流れだそうです。

先日、このトシでようやくにして鎌倉ハムサンドを買った。
ワンコインでしたよ。それがこれ。
鎌倉ハムサンド.jpg
パッケージをこじ開けると中身はこんな感じ。
封を開くと.jpg
ミックスサンドじゃないんですね。ハムとチーズだけか。
(株)大船軒となっていて、原材料表示を見たら、パン、ハム、粒辛子、半固体状ドレッシング、チーズ、マーガリン、乳化剤・・・以下省略。
処理済~控室で.jpgこのサンド、朝から外回り日の午前中に買ったはいいが、さてこの日の工程で何処で喰おうかと。
まさかこのクソ寒いのに、駅のホームのベンチで喰うのも何だしな。今日は本社には行かないし、どっか途中の支店の控室借りて喰おうかと。
都内の某支店の控室を借りた。たまたま旧知の女性社員2名がお昼時だったのでその子らと一緒にね。そしたら写真右の子が、
「それ、先日食べましたよ」
「???」
都内在住のクセに何故このサンドを知っている?
「何処で喰ったのさ?このサンドは鎌倉や大船辺りにしかないぞ」
「踊り子の中です」
踊り子ぉ?
ああ、伊豆急か。さては彼氏と伊豆方面へ温泉旅行でも行ったなと思ったがそこまでつっこまなかった。
左の子に、「何でそれ買ったんですか?それだけで足りますか?」と言われて返答に窮した。
「足りるわけねぇだろ。でも今日は時間に追われてその辺の店で喰えそうになかったのさ。その辺の公園とかで喰ったら変な目で見られるし・・・」
爆笑する2人である。別に笑いを取ろうとしたのではないぞ。
「電車の中で食べるとか」
「ボックスシートだったらまだしも、通勤電車のロングシートで喰えるかよ。でもひとりで恥ずかしげもなく喰ってる女いっけどな・・・」
写真左の子は呟きⅠに登場しています。
http://funayama-shika.blog.so-net.ne.jp/2011-11-15-2

手に取ってみる.jpg若い子にからかわれ悪態つきながら喰ったサンドのお味の方は、近年のコンビニやサラリーマンご用達の駅前にあるお急ぎコーヒーショップチェーンのサンドに比べるとアッサリしたものだった。ツナ、ユデタマゴとマヨソース、キュウリ&トマトといった脂っ濃いミックスサンド系ではありません。
現代のサンドイッチの味とは違いますね。
でも何処かで過去に喰ったような記憶が。
[ひらめき]
遠い昔、ジャン母が幼い私に持たせたサンドイッチの味は、辛子こそ入っていなかったが、ハムだけ、チーズだけだったな。
前にいるウチの若い子はその辺のコンビニで買った脂っ濃いサンドをかじり、それじゃ足りないのかカップラーメンなんぞを喰ってやがる。私はこれぞ明治のサンド、これが鎌倉ハムかぁ。。。と思いながら噛みしめた。
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小栗上野介忠順 [隠れ郷土史]

小栗上野介は1月15日に幕閣をクビ・・・罷免されると、28日に上野国権田村、現在の群馬県高崎市倉渕町権田への土着願書を提出した。
旧知の商人、三井財閥の祖、三野村利左衛門から米国亡命を勧められたり、渋沢成一郎から上野彰義隊の隊長に推薦されたりもしたが、「慶喜公に戦う意思が無い以上は・・・」と拒絶している。
三野村から米国への亡命をすすめられたともいう。その際に千両箱を贈られそうになり、この逸話と勘定奉行職にあったのが、小栗が持ち帰ったという上州赤城山麓や片品辺りの埋蔵金伝説みたいに流説される基になったのではないだろうか。

そっちの方面の話の方がオモシろそうだって?では信憑性には乏しいがアヤシイ話をひとつ挙げましょう。慶応四年(1868年)春、背に細長い鉄箱を二個ずつ積んだ八頭の牛が沼田街道を北に向かって引かれていったというもの。
千両箱という表現ではなく、細長い鉄の箱と伝わっている。千両箱はロットというか箱単位があって、千両入、二千両入、五千両入があった。相当な重量なので箱の縁が壊れないように鉄で補強してあったそうである。
仮に千両入の箱を牛に二個ずつ積んで計八頭なら一万六千両になるではないか。(ワニの本、埋蔵金を発見した)
最後の公方慶喜が水戸に去る時、勘定方から密かに二万両を渡され、町火消の侠客、新門辰五郎が護衛役だったなどという設もある。それと、誰かが江戸城から御用金を持ち出したとしたら、その人は昭和初期までは生存していたそうで、その聞き取りを基に一攫千金を夢見て三国海道沿いや沼田街道沿い、赤城、片品、昭和村といった辺りを調査、あるいは掘った人はたくさんいるそうである。
千両箱.jpg
だがこの記事は徳川埋蔵金のネタではないので小栗上野介に話を戻します。小栗は家族揃って権田村の東善寺に移り住んだ。
屋敷跡.jpg
屋敷跡への坂.jpg
上の写真は屋敷跡に向かう坂口ですが、足元が凍ってたり、ベチャベチャだったので自重しました。上がったところは平場になっていて、後で東山道軍が疑った武装要塞化はされていません。
何して暮らしていたのだろうか。晴耕雨読のようです。水路を整備したり塾を開いたり、農作業に従事したり静かな生活を送っていた。隠遁したといっていい。

だが同年4月、新政府東山道軍の軍監、豊永貫一郎と原保太郎に率いられた高崎藩、安中藩、吉井藩兵より東善寺にいるところを捕縛された際、新政府軍の言う上野介の罪状とは、
①大砲2門と小銃20挺の所持
②農兵の訓練
③勘定奉行時代に徳川家の大金を隠蔽したという説。
ここで③についてはこれまでも述べたので割愛しますが、①と②は実際にあったのだろうか。
これは実際にあったといえばあったのだ。新政府軍に抗する目的というより、権田を襲った暴徒の群に対してなのである。

地元の資料には小栗が持ち帰ったという徳川家の軍用金を狙って下野で蜂起した暴徒が前橋、高崎経由でやってきたと。更に武州秩父で蜂起した暴徒が藤岡、富岡を通ってやってきたと。この二勢力が室田で合流、3月になって権田村の手前、三ノ倉に押し寄せた。
その数二千人!!
風景6.jpg
暴徒らは村々を回って村人を無理に従わせ、従わずば火を放つと恫喝、脅迫した。数が膨れ上がった。
この暴徒だが、薩摩藩が戦闘の名目を欲せんと関東内に密偵を放って佐幕藩を挑発、庄内藩邸による江戸薩摩藩邸焼き打ちから鳥羽伏見の砲声に繋がったように、「小栗が軍用金を私して上州権田に帰っている」といそそのかしに乗った者どもだという。

暴徒は倉渕村の三ノ倉(現在の高崎市役所倉渕支所の辺りか?)に集結し、朝方7時に権田村に向けて行動を開始する。
暴徒の1隊は草津街道沿いから下平(現在の観音山、小栗の住居跡付近)に展開、もう1隊は上流、上権田の上ノ久保から、もう1隊は烏川対岸を攻め上って来た。

3月3日、小栗は村長と談合し、暴徒の首魁と話し合いで解決しようとしたが不調に終わる。二千人の暴徒は二手に分かれて権田村に押し寄せ、十一戸の家々と二棟のお堂を焼いて気勢を挙げた。
この時、ここが大事なのだが、小栗はあくまで防戦の為に家中でフランス式の戦闘訓練を経験済みの歩兵10数人、権田村内の猟師や成人した男子、計100人あまりで防戦した。
あくまで防戦の為ですよ。小栗が率いた戦闘訓練済みの歩兵10数人というのは江戸で要職に就いていた頃の幕府歩兵訓練の経験者に過ぎない。権田村に引っ込んでからこの地で新政府軍に抵抗すべく改めて戦闘訓練をしたのではない。
この辺りが濡れ衣、罠だったのである。

下地図、元村にある寺のマークが小栗が眠る東善寺です。烏川に沿った村々で戦闘が展開された。
権田村1.jpg
小栗は100人を5隊に分けた。1隊20人ずつである。小栗自ら1隊20人を率いて暴徒の本陣、榛名神社・・・何処だか不明・・・を攻撃した。
押し寄せた暴徒たちは数だけ多くても所詮は欲につられた烏合の衆なので小栗が率いる一隊20人を相手にあっさり潰走する。
もう2隊のうち1隊は烏川対岸の宮原に集結した暴徒を攻めこれも追い払ったが、この一連の騒動で約30人が死亡している。

暴徒に脅されて参加した倉渕四村の農民たちは詫び状を出してきたので事態は収拾される。
だが、この騒動が小栗を捕える口実になってしまったのである。新政府軍は小栗を恐れ、「七千人の兵を撃退させるだけの軍事力を持っている」と流布された。もしくは流布させた。二千人の暴徒が尾ヒレが付いて七千人の兵に化けてしまった。
小栗が権田村で持つ軍事力など家中と地元農民併せて100人ほどの男児、小銃20丁、旧式の砲一門程度だったのだが。。。
風景5.jpg
4月28日か29日、新政府軍の東山道軍がやってきた。
総督は岩倉具定(五百円札の息子)で参謀は八重にも登場した板垣退助と伊知地正治。彼らは上州諸藩に廻状を小栗上野介反逆ノ意志アリと配布する。高崎藩、安中藩、吉井藩、私が上州滞在中にいろいろお世話になり、今でもお世話になってる地の藩に「小栗を捕えろ」厳命を下した。
小栗は三藩の兵に小銃、砲を引き渡し、反逆の意志などない旨を申し立てる。三藩の取り調べは丁寧な物言いだたという。検分の結果、何処にも陣屋、砲台、小塞の類もないのがわかった。アタリマエである。暴徒を追っ払っただけなのだから。
東善寺.jpg
三藩は小栗が言うのを信じ、やや安堵して引き上げるのだが、端っから小栗上野介を断罪する肚の東山道軍総督府は三藩に対して温度差があり、「手ぬるい」「庇いだてするな」激昂した。
運命の日が来た。再度捕縛の兵が権田村に向かう。三藩は新政府軍の命に従わざるを得なかった。小栗上野介はロクな取り調べもないまま5月26日、朝4ツ半(午前11時)、烏川水沼河原に家臣とともに引き出され家臣とともに斬られる。まだまだこれからの享年42歳。
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未だ余話がある。
小栗は死の直前、母と身重の夫人、養女を以前から面識があった会津藩家老、横山常守(主税)を頼って会津に脱出させる。横山家老は八重で国広富行さんが演じていた。
一行は善光寺参りに身をやつし、新潟を経て会津に到着した。松平容保公の計らいで会津藩野戦病院に収容され一子を産んだ。
翌明治2年(1869年)春まで会津に留まり東京へと戻ったが帰るべき場所がなく、この項冒頭で触れた商人、三井財閥の中興の祖たる三野村利左衛門が庇護したという。三野村は小栗家の奉公人(中間)だったそうである。

小栗夫人は脱出に成功したが、小栗家の家臣で塚本という用人がいて高崎城内で斬られるのだが、その家族が地蔵峠を越えて松井田か七日市方面に向かった。
だが力尽きた。
地蔵峠は権田村から安中市松井田方面へ抜ける細い道で、そこに至るまでの悲話はここに寄稿するにしのびないくらいに哀しい。
http://www4.ocn.ne.jp/~kurasho/history/sonnaisiseki.htm
地蔵峠とそこに至る道は心霊スポットみたいに噂される記事もあって私はちょっと行く勇気はなかったが、行かれたらそこにある殉難碑に手を合わせてあげてください。

もうひとつ。
小栗の家族を会津まで送り届けた家臣のひとりに佐藤銀十郎という者がいる。
佐藤は会津藩にとどまり各地に転戦する。前に載せた記事、もう一つの白虎士中二番隊で、連戦連敗の会津藩が局地戦ながらも勝利した喜多方熊倉の戦闘の戦場跡墓地にその墓がある。
http://funayama-shika-2.blog.so-net.ne.jp/2013-07-24
佐藤は熊倉の戦闘で、用水堀の中に潜んで待ち伏せする戦法を指導し新政府軍を苦しめたが斃れた。享年21歳。
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墓そのものは掲載しませんが、雨に濡れた説明版には小栗上野介家臣とあった。ちょっと見難いですが。
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豪雨の中で墓前に立った私は、自分の好きな上州と会津が繋がった佐藤銀十郎の墓に不思議な感慨を覚えた。
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「小栗の策が取り上げられていたら我々の首はなかった」(大村益次郎)
「明治政府の近代化政策は小栗忠順の模倣にすぎない」(大隈重信)
「日本海海戦に勝利できたのは製鉄所、造船所を建設した小栗氏のお陰であることが大きい」(東郷平八郎)
そして作家、司馬遼太郎曰く、
「明治の父である」
明治の父なら近代国家の父といっていい。明治以降の日本軍部が強大な力を握った時代はさておき、現代の我々が平成の世で安穏と暮らしていけるのも、おおもとは小栗上野介の施策に基を発するといっていいのではないか。
それでいて小栗には、現在の政治家のように私を肥やしたような醜聞は全く見られないのだ。
皆さんはどう思いますか?
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小栗上野介忠順 [隠れ郷土史]

会津藩で軍制改革が行われた慶応4年(1868年)3月に古代中国の東西南北を護る四神の名を冠にした中隊、大隊が編成される。
青龍(東)、白虎(西)、朱雀(南)、玄武(北)である。
その初期の頃、白虎隊のいずれかに幻の初出動任務が下った。
任務は上州倉渕、権田村に隠退していた旧幕府勘定奉行他、数々の要職を歴任した小栗上野介忠順を会津に迎えるべく、白虎隊を使者として派遣するというもの。
先んじて小栗は懐妊中の夫人を先に越後新潟経由で会津に向けて避難させている。夫人は4月23日に会津入りするのだが、会津藩はその前に小栗も会津に来るであろうと察して迎えに派遣しようとしたという。

だが間に合わなかった。
小栗は東山道を東上してきた新政府軍と、新政府軍に脅された高崎藩兵他に捕えられ、同年4月6日、ロクな尋問、取り調べもなく処刑された。
白虎隊の初出動は中止になったのである。

(後述しますが、小栗夫人は身の危険を察した小栗の配慮で会津にたどり着いた。)
田んぼの片隅に.jpg
上州から戻る前、2013年2月の風景です。
高崎市に合併した旧榛名町から更に草津方面に遡り、長閑な権田村を流れる烏川の畔、田んぼの片隅に小栗上野介の終焉の地がある。水沼橋のそばです。
終焉の地.jpg
終焉の地説明版.jpg
墓はそこからほど近い東善寺にある。
東善寺.jpg
東善寺本堂.jpg
小栗上野介忠順とはどういう人なのか。
俗っぽく言えば、徳川埋蔵金を上州の何処かに持ち帰って埋蔵したかも知れない人と言えば思い出す人も多かろうかと思う。
話に入り易いようにその金銀ザックッザクの真偽について背景を述べます。新政府軍は大阪城内にあった18万両もの金を榎本艦隊に持ち去られ、江戸の金座、銀座、銭座から総額20万両の貨幣や金を押収したが、江戸城受け渡しの際には御金蔵に金が全くなくスッカラかんだったのだ。
それら御用金は小栗か小栗の意を受けた何者かがそれらを持ち出し、小栗の在所だった上州へ向けて三国海道、沼田街道、利根川水運沿いに運び、何処かへ埋蔵したという伝説が流布される。よく言われるのは赤城山麓です。
小栗が幕末最後の勘定奉行であったことや、タカ派だった為に恭順に傾いた徳川慶喜に疎まれお役御免になり、在所たる上州倉渕権田村に隠退したタイミングが合わさって小栗忠順が御用金を持ち去ったなどという一種のデマ、当時の都市伝説??
その趣味の方面には壮大なゴールデンドリームになったのであろうかと。

別にこの項は上州の徳川埋蔵金伝説を探るものではないですが、埋蔵金、大判小判、金塊というキラキラした世界から離れてみて、小栗忠順は何をした人なのだろうか。
あまり幕末もので主役、準主役で観ない人だが、身を粉にして働いた人なのがわかった。

文久元年(1861年)35歳で外国奉行
文久2年(1862年)36歳で勘定奉行&歩兵奉行
文久3年(1863年)37歳で陸軍奉行
元治元年(1864年)38歳で勘定奉行&軍艦奉行
慶応元年(1865年)39歳で勘定奉行&軍艦奉行
慶応2年(1866年)40歳で海軍奉行
慶応3年(1867年)41歳で勘定奉行&陸軍奉行

これって辞任再任を繰り返してるんですかね。同じ要職をちょいちょい歴任、再任されてるのを見ると、どうも歯に衣着せずズバリものを言う人で上役から煙たがられたのかも知れない。

小栗上野介を題材にしたドラマ今日まで一つだけある。
2003年の正月時代劇、「またも辞めたか亭主殿~幕末の名奉行小栗上野介~」というもの。
主人公の小栗は岸谷五郎さんが演じた。私は見ていません。見てないのであれこれ言えないけど、またも辞めたか・・・というのは前述の職歴のように就任辞任を繰り返していたから?
またも辞めたか亭主殿1.jpgまたも辞めたか亭主殿2.jpg
後年の創作かも知れないが、勝海舟とはライバル関係だったようですね。

小栗は上記の要職に就く前、日本人で初めて地球を一周した人でもある。
安政7年(1860年)、遣米使節目付役・・・目付だから監察のような立場で正使一行と、ポーハタン号に乗船、太平洋航路を2ヶ月かけてサンフランシスコに到着した。
使節代表は新見という者だったが、その新見代表以下の一行は現地で外国人に対してどう接していいかわからなかった。それ以前に多少とも外国人と折衝経験がある小栗は正規の使節と間違われたらしい。

現地で日米修好通商条約で定められた不適当な小判と金貨の交換比率を改定しようと努力したがそれは妥結できなかったものの、ワシントン海軍工廠を見学して製鉄や金属加工技術に驚き危機感を持ち、帰国した暁には国内でも製鉄所を建設しようと期するものがあった。
帰路はナイアガラ号という船で大西洋航路で品川に帰ってきた。だから地球一周したというわけ。

小栗は最初に勘定奉行に就いてからは遅まきながらも幕府の財政立て直しに携わるが、自国での軍艦建造能力がないので幕府が諸外国から購入した軍艦の総額は330万ドルを超過したのに愕然とした。それでいて要職に就いてからはもっともっと金がかかる事業に取り組む。
フランス公使と結んで幕軍洋式軍隊の整備、これは薩摩が英国と結んだのでそれに対抗したのだろうか。
文久3年(1863年)には横須賀製鉄所建設案を幕府に提出する。それには大量の鉄が必要なので、上州甘楽郡中小坂村、現在の群馬県甘楽郡下仁田町の中小坂に中小坂鉄山採掘施設を計画する。鉄鉱石がたくさん埋まってたのである。

製鉄所は慶応元年(1865年)11月15日に建設スタート。
横須賀製鉄所は後の横須賀海軍工廠だが、これを持って後年、東郷平八郎に、「日本海海戦に勝利できたのは製鉄所、造船所を建設した小栗氏のお陰である」と言わしめることになる。
だが建設費用がまた莫大で総額240万ドル。これをどうやって工面、捻出したのだろうか。勘定奉行の地位を活かして貨幣増鋳による貨幣発行益から建設費用を賄っていたのではないか。

反対の為の反対論もあったが小栗は押し切った。
横須賀製鉄所の所長としてフランス人の誰かを任命したのだが、この人事で導入されたのが、従業員の雇用規則、月給制度、職務分掌、残業手当他の人事労務管理の基礎といったもの。日本に初めて導入されたといっていい。
幕府はフランスと結んだので、日本初のフランス語学校も設立する。
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まだある。。。
陸軍奉行にもなっているので小銃、大砲、弾薬等の国産化も推進する。
現在の東京医科歯科大学のある湯島にあった湯島大小砲鋳立場という工場を現在の文京区関口にあった関口製造所に統合し、カビの生えた旧式の製造法を外国の技術に置き換えた。
火薬の製造には弾薬用火薬製造機械をベルギーから購入した。これを北区にあった滝野川反射炉の一角に設置して日本初の西洋式火薬工場を建設した。これは後年、小石川の旧水戸藩邸に建設された東京砲兵工廠に引き継がれるもの。
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慶応2年12月8日(1867年1月12日)にフランス軍事顧問団が到着して翌日から洋式訓練が開始される。それと同時にフランスに大砲90門、シャスポー銃10000丁、後装小銃総計25000丁、陸軍将兵用の軍服27000人分を大量発注し、購入金額は総計72万ドルになった。
ここで軍服の発注数だが、27000人分の兵力が幕軍にあったということか。このスケールで何故、幕軍は新政府軍に敗れたのか解せなくなってきた。

他にも大阪の商人から100万両を出資させて慶応3年(1867年)に株式会社「兵庫商社」の設立したり、日本初のホテル「築地ホテル館」を建設したりする。
この莫大な金のかけ方、動かし方、それでいて江戸城開城後に金銀がゼロという奇禍、だから埋蔵金伝説を生んだともいえるが、これほど金を動かして忙しく働いた幕府要人は他にそうそういないのではないだろうか。
幕軍歩兵2.jpg
徳川慶喜の恭順には反対した。
腰が抜けた徳川慶喜が鳥羽伏見戦後、幕軍を騙すように置き去りにして逃げ帰った後の1月12日の評定で、小栗は榎本武揚、大鳥圭介、水野忠徳らと徹底抗戦を主張する。
小栗には新政府軍に勝つ戦術があった。新政府軍が箱根に入ったところを陸軍で迎撃する。同時に榎本率いる幕府艦隊を駿河湾に突入させて後続部隊を艦砲射撃で足止めし、箱根の新政府軍を孤立化させて殲滅するというもの。挟撃策である。
慶喜の袴の裾を握って決戦の決断を迫ったが、恭順に傾き怒った慶喜はその場で小栗の役職を解いた。裾を振り払って奥に姿を消した。
この頃の慶喜は自分だけ助かりゃいいとしか思えないフシがある。百才あって一誠なし、貴人情を知らずである。

小栗は形式上では慶応4年(1868年)1月15日、江戸城にて老中松平康英から「御役御免及勤仕並寄合」という沙汰を言い渡されたのだが、上記のようにその3日前に慶喜から免職されているので、「将軍直々にお役御免になったのは自分ぐらいであろう」って自嘲気味にボヤいた。
これだけ働いて最後はあっけなく免職させられたのである。
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小栗は静かな権田村に隠退した。
そこへも新政府軍の靴音が響いてくる。だがその前に、小栗が徳川家の御用金を山のように持ち帰ったというデマが流布され、それを狙って暴徒が押し寄せてくるのだ。(続く)
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春日山城 昭和47年 夏。。。 [隠れ郷土史]

新潟銘酒館と謳った酒場記事が3つ続いた。
その店には「謙信」なんていう酒も置いてあった。マスターも「上杉謙信の飲んだお酒です」なんてホッコリしたジョークでお客さんにススメてた。
今日の記事は謙信公に関連してお蔵入りしかけてもの。

これはある資料にあった明治の頃の春日山城古写真。
ハゲ山になってる。
明治の春日山は禿山だった.jpg1 本丸
2 天守台
3 毘沙門堂
4 二の丸
5 三の丸
6 直江邸
7 景勝邸
8 猛将柿崎の邸か、軍師?宇佐美邸らしい。。。



昨年秋に金沢へ行った時、上信越自動車道が上越JCTで北陸自動車道に入ったら、すぐに春日山城トンネルに入った。
春日山城近辺の地図2.jpg
謙信公の春日山城のドテっ腹をブチ抜いているのか?謙信公への冒涜だとムッとしたが、実際はさにあらず、城域のやや南を通っている。
その先、北陸自動車道は富山、金沢方面へ向かう。途中、春日山城の西、桑取には小丸山、番屋、沖見、長浜、長沢、桑取、名立、能谷と越後軍の小砦ネットワークが形成されていた。

春日山城域は後世の拡張や東西南北の小砦ネットワークも含めてかなり広範囲なのだが、最初に誰が春日山城を造ったのかはわからない。魚津方面の織田軍に備えたそれらのネットワークは、現代の建設屋さんが考える道路建設ルートと同じなのはな~んとなく頷ける。春日山城は本城だが、新潟県が細長いのもあって案外と敵国境に近いのです。
現在、春日山本城は公園化、整備されて歩きやすくなっているが、背後のそれら小砦は現在も遺構を留めているが殆ど山歩きに等しいらしい。

春日山城も昭和の頃は今ほど公園化されていなかった。私が小学校五年生で春日山城に登ったって書いたら驚かれますか?
昭和47年頃だったと思います。
ジャン父(故人)、ジャン母と行った。ジャン弟はおそらく親戚宅に預けて従兄弟たちと遊ばせていたと思う。
その時の写真がジャン実家から発見されたのでUPします。

まずこの写真。
春日山駅です。
春日山駅.jpg
今はどうだかわからないが当時はバス便が全くなく、このローカル駅からタクシーで行った。駅に春日山をアピールするものは何もなかったように記憶している。無人駅だった。今はどうなんだろう。
如何にも昭和の車輛、この電車のツラは何系ですかね。
確か無人駅だったと思う。タクシーを何処で拾ったのか記憶にないが、麓の春日山神社まで行ってそこから歩いた。

春日山と名の付くところには大なり小なり必ずと言っていいほど春日神社がある、もしくはあった。
大和国の春日大社は藤原氏の氏神だから、造った城主は必ず藤原氏を始祖とするんだと。越後長尾氏は桓武平氏の流れだが、それ以前の傀儡化する前の上杉氏が藤原氏の出なんです。
上杉家は家臣の長尾氏に取って代わられた。謙信の父親、為景という人がかなりのやり手だったのだが、謙信公や父親の為景の頃は、越後国内はスッたモンだの内乱国だった。越後国は三日月のように細長くて統一が難しい。イロんな気質の豪族が蟠踞して統一が難しかったのです。

三の丸土塁.jpg
春日山城域の縄張りとかはその方面のブロガーさんにお任せします。この写真は私が子供の頃の見学だから、三の丸、二の丸。。。当時は何でそんな〇〇の丸なんて呼ぶのかわかんなかった。〇〇の丸ったって全然丸くないじゃないかって思った。

二の丸なんか草ぼうぼう。夏場だったので藪蚊がブンブンでしたよ。
当時は防虫スプレーなんかなかったですからね。
見ても何だかわかんなかったですね。雑木林じゃんかって。
二の丸.jpg
ガキの頃、親戚の家にお城のカレンダーがあって、それには姫路城、松本城、熊本城といった豪壮建築の天守が載っていた。往時のものか、後世に復元されたかものかなんてわかるはずもなく、建物があって当然と思っていた。
カレンダーの天守は往時のものだと信じて疑わなかった。まさか近世の復元も含まれてるなんて思いもよらなかった。
なので春日山城を見て、石垣もなく、建物が建ってないのを不思議に思った。
土居を見ても、「何だこの土盛?」
空濠を見て、「なんで水が入ってないの?」って。。。
子供心の掘といえばカレンダーで見た江戸城皇居のお堀だったんです。
三の丸.jpg
三の丸に養子景虎がいて、二の丸にいた同じく養子景勝から「出て行け」と言わんばかりに鉄砲を打ち込まれたのを後年知った。そこから泥沼の跡目争いが始まり、越後全土を巻き込む。
それを描いたドラマ、言っちゃぁ悪いが「天地人」は軽かったねぇ。あれを担当した脚本家や演出家は誰なんだ?もうちょっと骨太にドロドロ描いて欲しかったのだが。。。
時代考証もイマイチ。毘沙門堂がまるで何処かの洞窟風呂みたいな毘沙門洞になってたじゃないか。
はねっ返りの本庄繁長や新発田重家は登場しないし。戦闘シーンは殆どなかったし。期待してただけに相当落胆したよ。途中で早々と観るの止めちゃったモン。
景勝VS景虎は小説の方が遥かにオモシロイと思うのだよ。
だがTVの影響は強い。近年の若い子はGacktさんの影響で謙信は長髪だったと思ってるだろうな。

本丸.jpg
本丸の標高は180m足らずだが独立した山なので見晴がなかなかよかった。
これは景勝屋敷や柿崎和泉の屋敷跡を見下ろしたものです。当時、そっち方面は全く整備されておらず、雑木林か畑だった。
天守台からの遠望.jpg
天守といっても近世の白亜の楼閣があったわけではなく、二層か三層くらいの掘立式の櫓だったという。
各郭の屋敷、建物には瓦が一枚もなく、平屋で板葺だったと想像されます。豪雪地帯だからね。

何かの資料に、天守、櫓の1階部分に金銀が仕舞われてたとか、武器庫だったとか書いてあった。景虎を追い出した景勝は真っ先にこの金銀を抑えている。謙信公は案外お金持ちだったらしく、豊穣な越後国内で採れる米はもちろん、直江津港や北陸路を通じての貿易等で戦費を蓄えていた。もしかしたら佐渡の金山も抑えていたかも知れない。

子どもの頃の私は、城のヌシは高いところ、本丸、天守で居住してたとばかり思ってた。いちばんエライ人ほど高い場所で過ごすってね。
だがそんな高いところで日常生活してたら上り下りがタイヘン。実際は麓に近い居館で暮らしてのだが、お籠りしてた毘沙門堂も本丸の峰続きで高いところにあるので、謙信公は平素の館とお堂を行ったり来たり、登ったり降りたりしてたんなら結構な運動量だったのではないだろうか。
天守台.jpg
2004年7月にジャン妻と再訪したら整備されて説明版も豊富でした。千貫門跡や竪堀、毘沙門堂や直江邸跡等、最初の訪問時に見なかった場所も見た。
でもその時の写真は殆どない。当時はこういうネットの世界にいなかったから。
その時に初めて林泉寺にも行った。お喋りなご住職がいろいろ説明して下さったがまぁ殆ど知ってる話ばかりだった。
再訪時の写真はこれだけ。
今は城外にある総構えの監物堀です。
監物堀.jpg
監物堀と東城砦.jpg
これは謙信公が作ったものかどうか。もっと後年のものだとも聞いた。

春日山を再訪した前夜は嵐渓荘という宿に泊まりました。
新潟県を襲った集中豪雨で川が氾濫して宿敷地内も泥だらけだった。
処理済~嵐渓荘のジャン.jpg処理済~嵐渓荘のジャン妻.jpg
泊まった感想ですか?
まぁ会津蕎麦宿の方に軍配が挙がったですよ。(当時は未だ船山温泉も知らなかった。)

川中島にも行ってたようです。あまり記憶にないんだが。
川中島1.jpg
川中島2.jpg
川中島に行った日の夜に泊まった宿です。
この宿は?.jpg
この宿は前Blog、呟きⅠで載せました。http://funayama-shika.blog.so-net.ne.jp/2011-03-09-2
私みたいな野蛮人の泊まる宿じゃないですね。意中の女性を落とすにはいい宿でしょうな。
宿のHPです。http://traumerei.jp/

春日山に初めて行ったのは日本100名城に指定される34年前だった。
セピアの写真はもう戻れない少年の頃の夏です。。。
本丸2.jpg
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里見氏を大河に。。。 [隠れ郷土史]

未だ見ぬ里見第3橋台を探してた日のことです
http://funayama-shika-2.blog.so-net.ne.jp/2013-07-06-4
この日は時期的に草ぼうぼうだったので散策を断念し、街道に下りて、第5橋台に向かう途中の街道筋にこんな幟がはためいていたのを発見!!
マジ?.jpg
これってマジかよ。
無理じゃないの?
店番をしていたお婆ちゃんに訊いてみた。
「あの旗はマジ?」
「???」
失礼しました。マジなんていう現代語が田舎のお婆ちゃんに通じるわけない。「あの幟はそういう運動をなさってるのですか?」って丁寧に問い直した。
「あれはね。。。」
何か核心部分が返ってくるかと思いきや、
「○○さんがこの旗たててくれって言われたの」
○○さんとは地元の顔役さんであろうか。
「ここだけ?」
「いいや、他にも幾つかたってる」
確かに街道沿いに私の数えたところ、6本か7本、民家や果樹園、店にたってはためいていた。
「ドラマ化を実現すべく頑張ってるわけですか?」
「いいや、そういうもんでもない。でも(旗を)たててんの」

こういう運動を過去に一度だけ見たことがある。
米沢へ行った時です。「すみれ」じゃなくって単なる観光です。上杉家の菩提寺、春日山林泉寺、これは越後ではなく米山市内にあるもので、そこに直江兼続夫妻の墓があって、「直江兼続公を大河に」っていう幟を見たことがある。
結果、それは実現した。相当な運動を長年したと思われる。
おそらく来年の黒田官兵衛・・・出陣前夜に大酒を喰らった佐川官兵衛ではない・・・の地元姫路市でも相当な運動をしたのではないだろうか。
直江も黒田もドラマの時代背景的には秀吉、家康に繋がる。メジャー戦国です。だがこの地の里見氏はどうだろうか。
戦国前の時代なんです。

私だって南総里見八犬伝里見氏の発祥地がここだっていう説はこの地に来て偶然知ったんです。地名が地名なので試みに聞いてみたらビンゴだった。
里見という名前の家が多いんです。里見橋台の取材時に知り得た人が言うには、
「こっちの人はここが発祥だって言ってる」
「では房総半島の人は?」
「あっちの人は向こうが発祥だって。でもそんなのどっちでもいいんだよ」って笑ってた。
でもこっちの里見氏を大河にねぇ。
房総安房の里見八犬伝ならともかく、その前時代ですよ。全国区じゃないしねぇ。
参道登り口.jpg
コンビニにくるまを停めた。
すぐ傍に郷見神社という丘があった。里見=郷見という名前も気になったが、その丘が如何にもそれらしく見える。
マニアの人に言わせると、そういう地形の起伏を見て、もしかして?と脳裏に閃くケースがあって、それが昂じると病気だという。
如何にもそれっぽい.jpg
鳥居.jpg
社殿.jpg
頂上部.jpg
登ってみたらこれまたビンゴ。こんな説明版があった。
やはり.jpg
説明版3.jpg
まてよ?
前にもこれと同じものを載せたな。私が以前載せた場所は城山稲荷の裏です。呟きⅠです。
http://funayama-shika.blog.so-net.ne.jp/2012-12-06
その山が向かいに望遠される。
里見城を望む.jpg
里見氏は源氏です。
稲荷だか神社だかが複数あってもいい。今、私が立っているのはそこから道を隔てた郷見神社の丘です。道を隔てて二か所に同じ案内板がある。
一城別格構造だったのだろうか。
案内板を見たら、「南方眼前の丘陵地が・・・」とあった。ここではなく、目の前の丘がそうですよと訴えている。
地続きになってるように見えますが、実際はこの案内板の向こう側は丘の斜面になっていて、麓に分断する道路があり、南方眼前の丘陵地はその向こう側にあります。そこを昨年の晩秋に訪れたらこんな感じだった。
草が刈ってある.jpg
説明版.jpg
草が刈ってある2.jpg
西南の土居2.jpg

「里見氏を大河に」・・・この運動は真面目な取り組みらしい。
(上毛新聞2012年9月23日の記事から抜粋します。)
http://www3.wind.ne.jp/book_haruna/newpage1satominosatosuisinniikai.html
来年2014年度は、滝沢馬琴の「南総里見八犬伝」が刊行された文化11年(1814年)から数えて200年に当たり、加えて元和8年1622年に里見家最後の藩主、里見忠義が鳥取県倉吉市で没して庶子がなかったが為に事実上滅んでから400年近く経つんだと。
里見氏ゆかりの安房の館山市、鳥取県倉吉市、里見氏発祥地のT市が連携して、「里見氏大河ドラマ化実行委員会」を設立。2012年5月14日には里見氏を大河ドラマに推薦すべく、発表人数3万人の署名簿を持ってNHK放送センターへドラマ化への協力を要請したという。
この地に最初にいたのは里見義俊という人なのだが知ってる人はまずゼロとは言わないがその道によほど詳しい人でないと知らないだろう。最後の大名だった里見忠義もそう。

この地の里見氏が安房に移住するまでは戦国初期の頃の動乱を知る必要があるが私もよくわからないのです。
謎も多くてこれまで描かれていない時代ではある。だから新鮮ともいえるが非常に難解でして、応仁の乱(1467年~)はともかく、それよりもっと前、関東の内乱で「永享の乱」(1438年)~「結城合戦」(1440年)~「享徳の乱」(1454年~)という30年に渡る室町幕府と関東ダブル公方、ダブル管領家の泥沼の内乱時代。。。
誰が敵で誰が味方かわかり難いのだ。私だって殆ど知らないし、登場人物は同じような名前が多く、無名とは言わないがお茶の間的にはメジャーともいえない人たちばかり。

バカにしちゃいないですよ。でも知らなくても日常生活に全く支障がないともいえる。題材が難し過ぎるのだ。後半に太田道灌や伊勢新九郎(早雲)が登場すると、やっと知ってるキャラが出て来た~ってホッとするくらいです。
どういう経緯でここ上州の里見氏が安房に土着したのかその経緯すらよくわからないのだ。

里見氏が安房に興した後もこの地には庶流がいて上州一揆衆長野氏の傘下にいた。
餓狼みたいにやってきた信玄率いる甲州軍は、ローズベイカントリークラブの小砦や、里見氏のいるこの地や、ナワさんが制覇した雉郷峠で防戦するが、安中アルプスというその防衛ラインを突破され、本城箕輪城との連携を分断されて里見城は陥落する。
里見城地図.jpg
里見城は里見川と草津街道に面した小高い段丘上にある。
説明版は二か所あって、一つは城山稲荷の裏山。こっちは本城でしょう。
もう一つは今回掲載したコンビニ側にある郷見神社の上です。目の前の丘がそうですよと謳ってはいるが、こっちは出城か物見かもしれない。説明版が新しいので、冒頭の運動の一環で追加したんでしょう。
里見橋台とともに草木に埋もれています。
下りる.jpg
里見氏を大河に。。。これは実現するだろうか。
地味だが信玄に屈しなかった長野業政と併せて描いた方が大河実現可能性が高いかも知れない。
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吉井藩祖 松平信平の謎 [隠れ郷土史]

上州に1年赴任する前に、現地に伝わるアヤしげな生存伝説を3つ調べてやろうと事前に確認しておいた。
一つは前橋市の淀君生存伝説。
http://funayama-shika.blog.so-net.ne.jp/2012-06-15

二つは赤穂藩逐電家老、大野九郎兵衛の潜伏設。
http://funayama-shika-2.blog.so-net.ne.jp/2013-05-31

そして三つめが、駿河大納言徳川忠長卿の遺児が、吉井藩祖松平信平ではないかという異説。
私もその道の学者ではないので、現地での伝承のみ述べます。
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明治維新まで続いた吉井藩の藩祖たる松平信平は駿河大納言忠長卿の遺児なのだろうか。
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吉井陣屋跡に建つ藩士建立の碑文には、諱信平出自鷹司。。。駿河大納言之子也。。。とある。
陣屋門の説明版にも、鷹司の出と謳っている。
京都鷹司家の出自.jpg
卿之子也、松平信平、京の鷹司家、この各ポイントはどうつながるのだろうか。

まずガッカリさせるようで申し訳ないが、碑文から検索できなかったので別の資料を見たら、信平の生まれが寛永13年(1636年)になっているという。
卿が自刃したのが寛永10年(1633年)12月なので、この3年の差は誤差の範疇ではない。ちょっとオカシイと言わざるを得ない。

では候補者のもう一人である長七郎長頼はどうか。
実母らしい庚子という側妾が卿のお傍に仕えたのと、小幡藩織田家から正室が輿入れしたのも同じ元和9年(1623年)だった。どちらかが産んだ遺児がいたとしたら、母は庚子、これが最も信憑性が高そうだが、その遺児イコール長七郎かどうかはわからないのだ。
長七郎長頼という人物が実在したのかどうかという別の議論になってくるんです。後年、TV時代劇に取り上げられた所以でもある。忠長卿の血を引く遺児が江戸の悪を斬るといった格好の素材、人物。
長七郎江戸日記.jpg
次に鷹司家との関係だが、卿の兄、家光の正室孝子が鷹司家出身なのである。
この孝子を通じて卿の遺児を鷹司家に預けたというが果たして本当だろうか。後年、家光は忠長卿への処置を悔いたか、または卿の遺児を憐れんだのだろうか。
家光ってそんな甘い人物かねぇ。実弟とはいえ忠長卿を抹殺したくてしょうがなかったように見えるのは穿った見方ともいえまいて。実弟と将軍継承権を争って勝利した暁に自刃させ、検視に向かった老中に「駕籠でなく馬で行け」って叱責したくらいだからね。
まぁ百歩譲って後年、後悔したとして遺児を鷹司家に預けたとしよう。もしかしたら「自刃させよ」は家光の意志ではなく、土井利勝辺りの幕閣の陰謀かも知れないしね。だがその遺児を幕府内には置いておけないだろう。誰かが担いでまた幕閣の争いのネタにならないとも限らない。だから京都、鷹司家へ送ったのだろうか。

信平と長七郎の関係について、以下の説はどうか。
長七郎が諸国を放浪した果てに江戸の麹町で豪商の娘をならず者から助け、それが縁でその女性と一家を持ち、一子長松丸が生まれた。
この長松丸が後年、鷹司家の猶子となって信平を名乗ったという説がある。
何かがつながっているようには感じる。

吉井町には資料館があって私は平日に訪れている。
何だかヒマそうで、私が入ったら例によって不審な闖入者と思ったフシがある。入館料を出したら館内の照明を点灯したからね。
町史を購入して2階へあがり、甲冑やら模型やらを見た。その町史では三つの説が載っていた。
一つめは私も見た碑文です。駿河大納言卿の子也と。大納言卿薨じた後に産まれ、大猷公(家光)が舅である鷹司家に託したという定説。
問題の碑.jpg
もう一つは、前の定説に加えて、太祖信平公は前の関白、太政大臣信房卿の第四子也と筆を加え、実は駿河大納言卿の遺腹の子也とある。
異腹の子ではない。遺腹です。忠長卿が自刃した時、奥方のお腹にあった子の子、すなわち孫だというんだな。
吉井藩二十話.jpg
三つめには長七郎が出て来る。これには忠長卿の長男が長七郎であるとハッキリ書いてあった。その長七郎は慶長19年(1614年)生まれで、父忠長卿の自刃後は流浪の身となったが、幕府や紀州藩の保護を受ける。その後、江戸商人、木綿屋新兵衛の息女、みつとの間に儲けたのが信平だという。
信平は長七郎長頼の子なのだろうか。

だが、ここに出てくる木綿屋新兵衛と、その娘みつが前述の江戸麹町で出会ったとも書いていないし、産まれた子が長松丸とも明記してなかった。
それでもスッキリした話の流れだが、残念なことにこの説には決定的な間違いがある。
忠長卿の生年は慶長11年(1606年)なのである。
長七郎は慶長19年(1614年)生まれなら、殆ど同じ世代になってしまうのです。
系図.jpg
信平が鷹司家から吉井藩祖へ転籍というか、公家から武家になったのは間違いないらしい。
最初は7千石で万石に満たなかったが、長七郎が紀州藩の庇護にあった伝説も絡むのか、正室は紀州藩頼宣の娘を迎え、屋敷は紀州藩邸の一郭にあった。
紀州藩の分家みたいだったというが、分家というか居候であろう。
牡丹紋.jpg鷹司松平家となって紋章は牡丹紋。他にこの紋を許された大名は伊達、島津、鍋島、津軽しかいない。
諸役や軍役も免除され、領内を治めるだけであとは格式を誇示して悠然と暮らしていたかのようである。

その特別待遇を奇異に見た大名や幕閣もいただろうし、徳川家の血を引く者として囁かれたのは想像に難くない。公家から武家への転身を果たし、さらに子孫が大名となるという極めて特殊な経歴から、信平は実は徳川将軍家の血筋の人物であったという風説が生み出された。
そしたら後年、鷹司松平信平の経歴に松平長七郎が混同され、元を質せば駿河大納言卿に行きつく説が流布される。真偽は闇の中だが、公家の庶子を出仕させて大名に持ってったのだから、やはり信平には何か憚りや差し障りのある謎があるのだろう。
(信平は鷹司家の実子だったという説や、家光自らの落とし胤ではなかったかという説もある。こっちの方がスマートな説のようにも思える。)

斜めから見た門.jpg
凄いのはこれら一連のホントかな伝説、伝承を、もと吉井藩士が治跡として堂々としたデカい碑に刻み記録に残し、現在の吉井町もそれは当然と受け入れていること。これは町が律令制時代の最古の漢文碑を三つも町内に持っていて、おとなしい風土ながら実はプライドが高く、のんびりした町だが藩祖を敬っているのだと思う。

だが、それだけであってそれ以上に声高にアピールしてるわけではない。
松平信平は卿の子なのか、長七郎が子で、信平は孫なのか。残念ながら結果、わかりませんというのが結論です。

長七郎伝説は舞台を上州から秩父に移って更に生き続けるのだがそれは割愛する。最後に、鷹司松平信平は時空を超えて現代の平成の世に現れている。
この本です。
もしかしてこの人?.jpg
二見文庫はあまり知られていない新進気鋭作家を掘り出し、世に送り込んでいる文庫だろうか。この本のカバーには、『公家鷹司信房の子、信平は庶子であるため、門跡寺院に入るしかない。坊主になりたくない信平は15歳の時に将軍家光の正室となっていた姉の孝子を頼って江戸に出た。。。』
高貴な血筋を隠して江戸の悪を斬るというお定まりの内容なのだが、内容が軽いのでこれ1冊で読むの止めちゃった。今は7巻くらいまで刊行されているのかな。
別の但し書きにはこうあった。
『公家出身ながら後に一万石の大名となった実在の人物、松平信平の痛快な活躍!続々重版の人気シリーズ』
だそうです。吉井藩を興したのは間違いなさそう。
このシリーズで様々な謎は明かされるのだろうか。
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吉井藩祖 松平信平の謎 [隠れ郷土史]

2012年3月某日、私らは初めて上州の土を踏んだ。
風の強い日で、ジャン妻の髪は乱れ、私の頭皮に砂塵が吹き付けた。こんな風の強い地にいなきゃならんのかと辟易したモン。BHに戻ってシャンプーしたら私のアタマでもザラザラだったからね。
風になびくジャン妻の髪.jpg
だけど2年住む予定だったので、現地の賃貸不動産営業マンの運転で幾つかいい物件を見て回った。
その際、思ったのは、
人が少ない。
バスがあまり走ってない。
再開発したようだが寂れている、これで営っていけるんだろうか。
シャッター商店も多い。何処か郊外のデカいショッピングモールに流れてるんだなって想像した。
それでも個人で営っている魚屋さん、肉屋さん、八百屋さん、酒屋さんを探した。それと豆腐屋さんが見当たらなかったね。最後まで発見できなかった。

まだ物件も決まってないのにそんな視点でジロジロ見ていたら、如何にも再開発できなかった一区画に寺と墓地があって、塀に「駿河大納言徳川忠長公御廟所」とあったのです。
卿の廟所.jpg
「へぇ、駿河大納言卿の廟所がここにあんのか?」
私は声に出したが、営業マンはなんのことかわからず返事が返って来なかった。自分の住む町なんだから、これくらい知っとけよって思った。
後日、住む家が決まり、そのマンションから駅方面の事務所に通うのに、大納言卿の廟を護る寺院の前を歩いて通うことが多かった。
寺の名前は大信寺といって保育園も兼ねている。でも園児を送迎してるママも、駿河大納言卿が何者か知っている人って少ないだろう。
大信寺.jpg
大信寺は通町という路地町にある。
ショウさんがよく行かれるNANAの脇に石燈籠があってそこから参道が伸びている。
七.jpg
参道.jpg
徘徊した通りまち.jpg
以前のくいものや.jpg通町にはラーメン屋が2軒(なかじゅう亭、大大坊)と、他数軒飲みに訪れたことがある。
私が行った数件の飲み屋は小さくて暗く、板の間の座敷に座るスタイルの店が多く腰に負担が来るので、いいものを出す店だったが3軒行って1回ずつで終わった。
1軒、スナックに飛び込みで入ったら、3人いた常連さんが一人ひとり帰ってしまい、私だけになったことがある。
寺の前には移転前のくいものやRがあったそうで看板が残っている。

駿河大納言卿はこの地で非業の最期を遂げる。
旧中山道に沿った赤坂町に長松寺というお寺があってそこに客殿がある。城内から移築されたものなのだが、その客殿で自刃したというもの。
長松寺.jpg
よく知られているように、春日局の直訴によって将軍継承に敗れ、兄でもある三代将軍の家光と折り合いが悪く、本人の不行跡もあってこの地に配流され自刃した。寛永10年(1633年)12月、享年28歳。
自刃の真相は今回の本題ではないので触れない。駿河甲州55万石でも不満、駿府城に挨拶する諸侯が多く家光の不興をかった、卿が家光の住む西の丸の鴨を鉄砲で撃ち取った、静岡浅間神社の猿狩り、家臣を手打ちにした乱行とか伝わっているが、不行跡の素は幕府内の暗闘の犠牲かと思う。
兄の家臣になれなかったってこと。
卿廟所の説明版.jpg
自分がこの街に来たのは卿のお導きかもしれないと勝手に思ったりした。
それはこの地に配流された卿と、この地に赴任したが先が見えなかった私の最初の心中を重ね合わせたのもある。
住んだマンションがこの寺と近かったのでよく前を歩いた。
朝、出がけに、「卿、おはようございます」、「卿、お寒くはございませぬか」
東京から戻ったら「卿、ただいま戻りました」
声に出したら変人に見られかねないので、心中手を合わせて合掌瞑目しながら歩いた。

中に入ったことは三回くらいなんです。
塀に囲まれた墓地には確かに大納言卿のお墓と、護っていた侍女の墓があった。写真は撮らなかった。

最後に入ったのはこの地を離れる頃だった。「東京へ戻ります。最初は2年って言われてたんですが・・・」

卿の母はあの江です。信長は大叔父にあたる。卿の奥さんは伝わるところではこれも織田一族の娘で、信長の二男、信雄の四男、信良の娘です。
(織田信良は小幡藩の初代藩主 http://funayama-shika.blog.so-net.ne.jp/2012-05-21
卿の肖像は伝わってないが、江州浅井家の血を引いているから美男だったという説がもっぱら。

嗣子はいたのだろうか。
よくわからないのだが、よく知られいるのは松平長七郎長頼という人が嗣子だと伝えられている。
母は庚子といって側妾のひとりらしく、寛永元年(1624年)に長七郎(長頼)を出産したと伝わるが、資料上では卿の実子の存在は確認されていないそうです。
この長七郎長頼は後でまた出てきます。

ここで舞台は市内から離れ、市に合併された吉井という町へ。
町役場と資料館の敷地内に吉井藩陣屋の表門が残っている。
吉井陣屋門1.jpg
この門は当時のモノホンを復元したもの。再建ではなく復元です。廃藩置県の時に一度は解体され、何処かの豪農に売却されていたものを昭和45年に町に寄贈したもの。
いつ作られたのかはわからないが、ザッと200年は経っている筈。
説明版.jpg
吉井藩は僅か1万石だが改易されることなく明治を迎えている。綿々と続いたようです。しかもたかが1万石程度で御三家、御三卿と同格扱いの間だった。
藩主の詰所が江戸城大廊下下ノ間が定席だったのです。そこは尾張、紀州、水戸の御三家、親藩、御三卿(一ツ橋、田安、清水)、前田藩、島津藩が詰めていた。
そんな特等席に僅か1万石の吉井藩主松平家が何故詰めていたのか。軍役や諸役も免ぜられていたそうです。まるで特別待遇ではないか。

写真は吉井藩、武家屋敷長屋の現在の様子です。
武家長屋の跡1.jpg処理済~武家長屋の跡2.jpg

実はその吉井藩祖に謎がある。
今回の記事はこの吉井藩祖の謎が主題です。吉井陣屋門から西へ数分歩くと土居か櫓台跡かと思う土盛がある。
春日社跡1.jpg
これは吉井藩の氏神様、春日社の跡地なのだが、そこに大正六年(1917)に建立されたデカい碑があった。建立したのは中村忠誠という旧吉井藩士のもの。
問題の碑.jpg
碑文は漢文で刻まれていて、最も重用な箇所が高いところにあって全部は把握できなかったのだが、この写真の右から二行めに、諱信平出自鷹司。。。
更に三行め、駿河大納言之子也。。。
???
駿河大納言の子也.jpg
吉井藩祖は松平従四位下左近衛少将信平という。以下、信平としますが、官位からしてかなりの貴人のようです。
その正体は、家光の不興をかって肉親でありながら自刃させられた駿河大納言卿徳川忠長の遺児であると。この碑文だけ読むとそうなる。

では前述の、卿の遺児と伝わる長七郎長頼と吉井藩祖松平信平は同一人物なのかというとそこまで断定していない。
どうもそう単純ではないようである。何か憚りがあって隠されているかのように感じる。

母は誰なのか?
小幡藩の織田家から嫁してきた織田信良の息女ではなく、前述の側妾、庚子らしい。
庚子の墓は市内の中居町にあるのだが、寺ではなく個人宅なので私はフラッと訪ねるにちょっと躊躇してしまった。
その家で庚子と実子、長七郎は卿の自刃前に対面していると伝わっている。それは長七郎長頼であって信平ではない。

どうも長七郎と藩祖信平は別人の可能性が高い。では長七郎にせよ信平にせよ、駿河大納言徳川忠長卿の遺児なのに連座の罪をまぬかれ、後年藩主に抜擢されたは赦免でもあったのだろうか。
碑文にある説明は奇怪至極としか言いようがない。駿河大納言の遺児でありながら、京都公家鷹司家の出身とはどういうことなのか。そんな混ぜこぜの前身って何だ??
公家から武家に転身したという奇怪人物、松平信平とは何者なのか??(続く)
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この城から落ち延びて。。。 [隠れ郷土史]

宮崎城説明版.jpg
今年の春、上州から引き上げた時はこの写真1枚しかなかった。
城跡が中学校の敷地になっていて、行ったのが平日だったのでもちろん校内には入れないし、学生さんが授業中だし、「校舎内への侵入は直ちに警察に通報します」ッテいう穏やかでない表示もあったりしたから。
撮影してたらヤバそうな雰囲気もあったので。
警察に通報しますよ.jpg
何しろこっちは不審者に見られかねない黒いダークスーツでノーネクタイ。周囲の畑を耕してる農家のオッさんにジロジロ見られたりした。校舎の教室からも黒い点みたいに私が見えたに違いない。
正門前に停めたら停めたで目立つし、少し離れたところに停めようとその辺りを走ったら、道路は畑の中を走り、その先はくるまの行き違いもできないくらいな切通でカーヴミラーもない坂道になった。どんどん細くなったので無理せず途中、回転できるスペースで引き返した。

造ったのは宮崎という土豪。諱は不明。私称官位は和泉守。
その後、上州一揆衆から信玄に寝返った小幡信実の弟、昌高という人がいた。宮崎氏は小幡氏の傘下に吸収されたと思う。
小幡氏は上州一揆衆の盟主、長野業政の一党だったがアッサリ信玄に下り、外様ながらいいポジションまでいったようだが、武田が滅んだ後は小田原の後北条氏に臣従。
だが三度目の転職はなかった。太閤の小田原攻めの一環でこの辺り一帯の小城群は薙ぎ倒されるように次々と陥落、開城していく。

この中学校・・・じゃなかった宮崎城、最後には小幡一族の吉秀という者がいたそうだがあっさり陥落した。
その後、長篠城籠城戦で頑張った奥平信昌が三万石貰ってこの中学校・・・じゃなかった宮崎城主となったが、美濃の加納へ転封になり、この中学校・・・じゃなくて・・・宮崎城は廃される。
神農原~宮崎城(西中)地図.jpg
この中学校・・・宮崎城は上信電鉄の神農原駅北にある。
神農原の某病院にエライ先生がいて、私はそこに届け出があってその帰途に寄った。
冒頭前述の通り、ちょっと撮影も憚られる雰囲気なのですぐ引き返したのですが、「不審者は通報します」←これがあるせいで、特に何もないのにマニアには割と有名なトコでもある。

この説明版だけだと喰い足りないでしょう。時間と体力があって、履物や服装がそれなりにちゃんとしてたなら、西へ500mほどの尾根続き、神成山ん中に詰城があるからハイキングコースを登ってみてください。おそらく熊は出ないと思います。私はスーツに革靴なのでそこは行かんかったです。
「そういう服って持ってないんですか?」と私に聞いたのは上州のヤンキー社員。
「持ってない。カジュアルは一着も持ってない」
「似合わないですよね。ねぇねぇ、○○さん(私のこと)ってカジュアルとかジーンズとか持ってないんだって。似合わないよねそういうの」
放っとけっつーの。話に割って来たのは前に載せた速口娘。
http://funayama-shika-2.blog.so-net.ne.jp/2013-05-08
「じゃぁ黒地に髑髏の柄とか、桜吹雪とかのTシャツ着ればいいじゃないですか」
「何を言ってやがる・・・仕事場でTシャツはよくないよ。襟がないとさ」
「だって暑いんです」
「お前そのカッコ、寝てたカッコでそのまんま着替えしないでくるまに飛び乗ったんじゃないだろうなっ」
「ええっと・・・(笑)」
さてはそうなんだな(苦笑)。上州はくるま社会、くるま通勤だからか、あまり服装に気を配らないみたいですね。電車通勤と違って誰も見てないし、人目を気にしないでいいからね。

それは余談、では何故、これだけなのに思い出したように記事にするか。
後日、この中学校・・・城が陥落した際、ここから落ち延びた方の末裔に出会っているんです。
私は上州滞在中に50余の古城、それも箕輪、国峰以外はマイナーなものばっかりだったのだが、その話題の流れで、ある女性に、「宮崎城って行ったことありますか?」と言われたんだな。
「ありますよ。あの学校の敷地になってたヤツ。ウロついてたら通報されかねないトコ」
そしたら、「私の祖先がそこを落ちてきたんです」と言うんだな。
おそらくその方のご先祖さんは、上州侵攻の武田軍か、小田原北条を攻める太閤軍、藤田信吉率いる東山道軍に攻められて、包囲網を脱出、結局は落ち延びて武士を捨てたのかなって思った。

その末裔の方は上州ブロ友、チエ嬢です。確か、味一味で、もと田舎娘さんが合流する前に話をしたんだと思う。
http://funayama-shika-2.blog.so-net.ne.jp/2013-02-18
今回、思い出したように、ご先祖さんの調査を依頼した。
「明日、祖父に会うので訊いてみますねっ」

私費で上州に来て、ハシゴで飲んだくれた翌日の土曜、ジャン妻は休日出だった。
「ゆっくりしてきていいよ」というメールが来たので、上信電鉄で、宮崎城の最寄駅、神農原にゴトゴト向かった。冒頭の写真1枚じゃ記事としてカッコがつかなかったからである。
車内は日焼けした運動部の学生さんたち、コカコーラ大缶をガブ飲みする野球部員、行儀の悪い中坊たち、市内で山のようにCDを買い込んだ若い女性、山歩きのカッコした夫婦、そして私。
神農原までは50分弱かかりました。単線の片側ホーム、無人駅。改札もないので降りる時、車内で運転手自ら運賃精算に立ち会う。結構高い金額だった。
降りたのは私だけだった。
電車が下仁田方面へ去って行く。駅の小さい待合にあった時刻表を見たら1時間に1本しかないじゃないか。
本数少ねぇな.jpg
神農原駅ホーム2.jpg
駅名表示.jpg
そこから北へ向かって歩く。途中、酪農家の家の脇を歩く。
既に中学校が見える位置まできているが、そこから西を見ると山の峰が続いていて、おそらくこれが詰めの城、神成城の推定地。
神成城推定地.jpg
そしてこんな坂を登る。
坂1.jpg坂2.jpg
坂3.jpg坂4.jpg
ゼェゼェ。息が乱れる。
アタマのてっぺんから玉のような汗が噴き出した。自販機もなさそう。シマッタ、事前に水を購入すべきだったね。脱水症状や熱中症でダウンするのはこういう時かも知れない。だが、時折吹く風は秋風で冷たかった。

今日は土曜だから学生さんはいないだろうとタカをくくってたが甘かった。テニスコートで練習試合中でやんの。テニスコートをぐるっと回ったところに正門があって、そこに宮崎城の案内版がある。
学生さんと目を合せないようにした。
説明版と再会.jpgこの辺りも城域.jpg
赤い部分がテニスコート.jpg
説明版の前に立つ。
しばらくじーっと立ってた。如何にも私はこれだけが目当てで来たのだよ、不審者じゃないよという空演技。
赤く塗ってある広場がテニスコートです。私は左下の細い道を上がって来た。この図を見ると学校敷地の西に濠があるようだが、暑かったのもあって行く気が失せてしまい、結局、初回訪問時と同じものを見たに過ぎない。
詰めの城への入口1.jpg詰めの城への入口2.jpg
暑い暑いとカオをしかめて丘を降りる。何処かに自販機ないかな。
そしたらあったのである。「まあむ」というCafeみたいなのがあった。
自販機のジュース類が100円。
これは中学生の小遣い値段だな。学生さんがタムロする憩の場所かな。
Cafeにも興味がわいた。小腹も空いた。でも今ここでビールなんか飲んだら最後、全身の力が抜けてヘタっちゃうだろう。缶コーラだけにしておいた。
100円自販機.jpg
http://mamnooaji.gunmablog.net/
おそらく地元の地主さんの農家兼副業のお店でしょう。
缶コーラをガブ飲みしながら、今頃、チエさんはお祖父さんにインタビューしてるかなって思う。
まあむ入口の坂.jpg
降りた時は気付かなかったが、ホームの上り方面踏切に「麺やおとみ」というラーメン屋さんがあった。
他に競合店がないのもあってここにも惹かれた。あごしょうゆラーメンと、カレー味の揚げ餃子が美味しいらしいですよ。
電車の時間の関係で断念。こういう時に限って時間の乗継がよかったりするものなのだ。
麺やおとみ.jpg
ホームで上り電車を待ちます。
自販機で水を購入してアタマっから被った。どうせ駅には他に誰もいないし。
上り電車の運転手さんは、先刻、私がここまで来た下りの運転手さんと同じ人だった。電車のデザインも同じ。
上り電車が来た.jpg

チエ嬢から情報が届いた。大正五年生まれのお爺さんから聞き取り取材をしたそうです。
御年97歳!!
聴き取ったその内容は、
「宮崎城を落城後、生き延びた者は甘楽郡南牧村の城へ逃げ込んだそうですが、多勢は匿って貰えず、長野県上田城、鳥居峠、中之条、長野原と流れたそうです。このルートには落ち延びた者の子孫が点々といるそうです。」
城主だったの?
「先祖は旗頭だったそうです」
旗頭ってのは小隊長みたいな位置づけだろうか。
チエさんの祖先は東へ逃げた。
「南牧と逆方向で、東の堺町伊与久の雷電神社に30名ほどで逃げ込んだそうです。その後、堺町鶴谷の山ん中にひっそりと居を構えたそうですが。。。」
雷電神社.jpg
チエさんのご先祖、落ち武者一行30人が逃げ込んだ境町伊与久の雷電神社は東武伊勢崎線の剛志駅の北にある神社だと思う。
神社と神主は領主と密接な関係があったり地元の有力者の場合が少なくない。そこで何を祀っているか、その祀っている御神体によって己の敵か味方かを判別する手がかりにもなる。例えば八幡大菩薩だったら源氏の血脈なら匿ってくれるだろうとか。
境町鶴谷の山中はちょっとわからなかったが、一連のお話を伺うと攻めて来たのは小田原北条を平定しようとした太閤上方軍ではなく、その遥か前、上州を侵略しようといした甲州軍、武田軍ではないだろうか。

後年、上州に攻めて来た太閤上方軍は兵農分離されていたが上州は分離されていない。当時は兵=農民でもある。大軍でこの程度の小城を力攻めで陥落させ、農民、農兵でもあった数十人規模の城兵を駆ったり追い散らしたりしたら、現地の土地を耕作する者がいなくなってしまう。支配できないのだ。
単に領土と戦利品が欲しかった甲州軍と、天下平定が目的の太閤軍とでは敵や農民に対する対処が違う。乱取り、分捕りの甲州軍と違って、全国平定を目指す太閤軍は今後その地を支配する為にある程度の慰撫や懐柔も弄したのである。
(北条一族が籠った巨城は除いての話です。)
なのでチエさんのご先祖が抵抗して落ち延びた敵は甲州軍だと思う。太閤軍だったら物量が圧倒的に違うので降伏するしかない。
何故、降伏開城しないで、徹底抗戦して逃げたのだろうか。
捕われて甲斐府中に売り飛ばされるのを恐れたのだろう。

「宮崎城の話というより私の祖先の話しか聞けませんでしたよ。なぜ先祖の確証があるかというと、家系図があることと、当時の住まいにあった慰霊碑や墓碑等を、祖父が掘り起こして調べたんだそうです」
ご先祖さんはそのまま、武士を捨てて帰農したに違いない。
城の西側.jpg
「まだ一度も行ったことがないんですよ」というチエ嬢は、いつかご先祖さんが戦ったこの地に立つだろう。
その時、何を思うのだろうか。
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箕輪城 [隠れ郷土史]

箕輪城の大空壕.jpg
この巨城を訪れたのは2月初旬です。
あと2か月で東京に戻される、それまでに見に行かないと・・・かなり焦って見にいった。
行ってみたら重機が出入りしてまさか造成地にするのかと思ったらそうではなく単に公園化整備の為だった。樹木を伐採して見やすくなっていた。
重機の大きさと空壕の大きさを比較してみて下さい。
重機と比較してみてください.jpg
この後も載せますが、如何に巨大な箱堀かがわかるでしょう。人力で掘った当時は相当な労力だったと想像できる。

現在はどうなってるんだろう。
工事看板には平成25年2月28日までとなっていたが、市のHP関連にはこんな見出しがあった。
戦国時代の城門復元で最大級にという仰々しい見出しで、『高崎市教育委員会は、国指定史跡箕輪城の城門を井伊直政が城主をつとめた戦国時代末期の姿に復元する計画を5日に発表した。』
井伊直政??
赤備えか。別に嫌いじゃないけど、讃えるべきは長野業正ではないのか。

どんな門を復元するのか。
『郭馬出西虎口門は幅5・7m、高さ6・3mの2階建て櫓門(やぐらもん)。戦国時代の関東地方の城郭として規模が確認されているものでは最大級。南側から登城する3本の道がこの門に集約されるため防御上極めて重要だった。徳川家康の家臣として最も石高の高い12万石の領地を与えられた井伊直政の城にふさわしい荘厳な城門となっている。』
また井伊直政かい。家康の関東入府の時から8年いたんだったかな。
郭馬出.jpg
その先は略すが、気にとまった箇所がこれ。
『国指定史跡における建造物の復元は根拠が明らかになっていないと文化庁の許可がおりず、現存する文献が少ない戦国時代の城郭では復元が難しいという。門の礎石が全て残っていたため、全国の現存する城門や城絵図面を分析し上部構造を考証した。今回の復元は、国史跡の戦国時代の城門として6例目、「郭馬出西虎口門」は、その中で最大級の。。。』
何かしっかりした根拠がないと認められないんですね。
http://www.takasakiweb.jp/news/article/2013/06/1101.html

百名城の一つです。
榛名山麓のやや斜めになった台地上にある。たまたま工事中だったので大手からではなく搦手から上がったのだが結果、いいコースを歩けた。
搦め手から上がる.jpg
城内のあちこちで工事をしている。
郭を見下ろす.jpg
一見、道路から見るとそれほど要害堅固には見えないが、自然地形に大規模普請を加えている。見学できる城域だけでも広い。
箕輪城碑.jpg
本郭2.jpg
本郭1.jpg
土居が伸びる2.jpg
土居が伸びる5.jpg
空壕に降りてみると工事普請の凄さがわかる。深さ5~6mほどか。
業正の工事ではなく、井伊直政の大改修かも知れない。
ではその空壕に下りて歩いてみましょう。
空壕に降りて見た.jpg
空壕に降りて見上げる.jpg
空壕を歩く1.jpg
空壕を歩く2.jpg
空壕を歩く3.jpg
空壕を歩く4.jpg
空壕を歩く5.jpg
空壕を歩く6.jpg
空壕を歩く7.jpg
本丸の崖に沿う.jpg
井伊直政もいいが、ここには上州一揆衆を束ねた盟主が長野業正がいた。
彼は信玄に勝てずとも負けなかった。撃退数は6回。もっともこの説には異論があって、業正の没年は永禄4年。川中島にケリをつけての上州侵攻がその後だから、信玄と業正の直接対決は無かったんじゃないかという説がある。
その前、弘治3年(1557年)から信玄の西上野侵攻が始まっている説もある。この辺りは私は学者じゃないのでその道の先生方にお任せするが。

前に鷹留城の項でも書いたが、業政には12人の娘がいた。
娘たちの名前は一切、わからないのだが、12人の娘さんを周辺の豪族達に嫁がせ、ホントかどうか数えたことがないが300近くある支城、砦、烽火台を繋いで防衛ラインを繋いだ。
その中には数十人規模の守備兵程度の小塞もあったが、要の婿たち12人は。。。
長女、小幡城主小幡信貞室
次女、国峰城主小幡景定室
三女、忍城主成田室
四女、山名城主木部定朝室
五女、大戸城主大戸左近兵衛室
六女、和田城主和田業繁室
七女、倉賀野城主金井秀景室
八女、羽尾城主羽尾修理亮室
九女、浜川城主・藤井氏(箕輪長野家家老)室
十女、厩橋城主・長野氏室
十一女、板鼻鷹巣城主・依田氏室
十二女、室田鷹留城主・長野業固室

この娘婿たち十二城のうち、私が訪城したのは長女、次女、四女、六女、十女、十一女、十二女、半分だけだったのが心残りだった。婿たちの要の城塞、例えば十一女の婿である鷹巣城や十二女の婿の鷹留城の防衛ラインには、安中、後閑、里見、雉ヶ尾、ローズベイカントリークラブゴルフ場にある蔵人といった中塞、小塞のネットワークが構成されていた。

野戦になると婿たちや他の国人衆を糾合して大軍を編成する。だが業正は上州衆から選ばれた盟主であって主君と主従ではない。連合軍なので各将の足並みが揃わず、野戦では甲州軍に打ち負かされるが、撤退戦や奇襲で甲州軍にジャブのようにダメージを与え、最終的にはここ箕輪城の防衛戦で受け、結果、上州制覇を諦めさせるのを繰り返す。
勝てなかったが負けなかったのである。
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三の丸石垣1.jpg
三の丸石垣2.jpg
三の丸石垣3.jpg
三の丸石垣4.jpg
亡くなる前、嫡男の業盛を呼び寄せ、凄まじい遺言を残した。
「小さい墓でいい。法要は要らんから敵の首を墓前に持って来い。敵に降伏するな。運が尽きたなら討死しろ。それが俺への孝養。これに過ぎたるもの無し」
業盛は「死ね」と言われたに等しい。

業正が没して信玄は喜んだ。
永禄四(1561)年、次女の嫁いだ国峰城を攻略。
永禄六(1563)年、六女の婿、和田城主の和田業繁が武田に寝返った。
永禄七(1564)年、松井田城と安中城が陥落。
永禄八(1565)年、七女の嫁いだ倉賀野城が陥落。
永禄九(1566)年、に十一女の嫁いだ鷹巣城&十二女が嫁いだ鷹留城ラインと箕輪城が分断され、鷹留城陥落。

両軍主力は9月28日に若田ヶ原という場所で激戦となった。若田ヶ原はJR群馬八幡駅の北、若田町で、里見橋台2号がある八幡霊園の辺りです。
29日に箕輪城は落城する。業盛は遺言通り自刃した。

その後は内藤昌豊、内藤昌武(昌月?)、北条氏邦、滝川一益、再び北条氏邦と内藤昌武と城主、城代がコロッコロ変わり、赤備えの井伊直政が最後の城主になる。
直政は後年、和田城(高崎)に移転するので、箕輪城下と高崎市街地には同名のバス停が幾つかある。本町、田町、連雀町です。箕輪城下では本町と田町は箕郷本町、箕郷田町になっている。
石垣1.jpg
石垣2.jpg
雪が残る空壕.jpg
大堀切1.jpg
大堀切2.jpg
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この箕輪城を見た翌日に伊香保のぴのんに行ったのだが、バスで再度この城山を望見した。
箕輪城に行く人が一人いて、バスの運ちゃんに「このバス、箕輪城に行く?」って訊いてた。運ちゃんは帰りの便も含めて丁寧に教えてた。
「箕輪城行きますよ。箕郷営業所で乗り換えないと。近くなったらまた案内します」
箕郷営業所バスロータリーまで来たら、「もう乗り換え出ちゃったですね。次が30分後に出るよりこのまま城山入口までいきますか。そこから歩いて30分くらいですから」と相成った。
城山入口に向かって走る運ちゃんは、箕輪城から市内に戻るバスの便をマイクに通してその客に丁寧に説明してたが、説明熱心が昂じて降ろす予定だった城山入口バス停をうっかり通過してしまったのだ。
「ああっすみませんここです。ここから歩いて300mぐらいです」
途中で降ろしちゃった。そのお客は箕輪城に向かってった。歩いて300mぐらい先に搦手口がある。
一連のTALKは車内アナウンスで丸聞こえで流れたので、1人を除いた乗客全員に箕輪城の名前が刻まれた筈。
その1人とは誰か。
ジャン妻です。
ZZZ。。。寝てたんですよ。
激戦だった辺り.jpg
業正は単純に上州が好きだったんだと思う。「荒らすんじゃねぇ」がホンネだったのではないだろうか。外へは攻めに出ない、侵略されたら戦うのが信条だったのだ。

2013年12月4日加筆添付。
ジャン実家にあった1969年発汗図書にあった当時の箕輪城の古写真です。
箕輪城古写真1.jpg
箕輪城古写真2.jpg
箕輪城縄張図.jpg
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安中榛名岩戸山 四十七義士石像の謎 [隠れ郷土史]

四十七士石像3.jpg
この石像群は合計、四十九ある。
安中榛名駅から北にある岩戸山中腹にある、本懐を遂げた赤穂四十七士の石像です。祀ったのは、浪士、片岡原五右衛門の下僕、元助という人。
義士の数より二つ多いのは、主君、浅野内匠頭長矩と夫人のものがあるから。
どれがどの人の石像かはわからない。ネットで保護されてるのは、持ち去ろうとする不届きものがいるからだとか。

元助とはどういう人物なのか。
簡単に書きますが、この人は上州下秋間の農民、三右衛門という人の長男だという。
幼少にして母を失い、父の三右衛門が後妻を迎えたのだが、よくある話で折り合いが悪かったらしい。僅かの金を懐に家出して伊勢参宮へ向かった。
だが宇治山田で路銀を使い果たし、人の施しにすがっていたら、その地の縄張の乞食たちにボコボコに撲られていたところへ通りかかった片岡源五右衛門に助けられた。
源五右衛門は浅野内匠頭の代参で伊勢神宮へ参詣するところだったそうです。

元助は下僕になって赤穂に連れて来られ、以後、奉公に励む。
赤穂開城後、片岡源五右衛門は元助を連れて江戸へ下るが、吉良邸への討入計画は元助には明かさなかったらしい。討入前夜、突然永の暇を出す。元助は悲嘆するが源五右衛門は同行を許さずその場で解雇。
元助は本懐を遂げて吉良邸から出て来た片岡源五右衛門を見送り、義士が切腹した泉岳寺の墓前で泣いて夜を明かし、故郷の秋間村に帰ってきた。

剃髪して名を音外坊と改め、諸国を廻って喜捨(寄付)を受け、20余年の蓄えを持ってこの岩戸山中に浅野長矩夫妻と四十七義士の石像を建立。
その後はまた諸国を巡ったが、53歳で余命を悟ったのか房州和田浦で入寂したという。
解説版1.jpg解説版2.jpg
石像は駐車場から山に分け入ったところにある。
安中榛名駅から県道48号線を走って、二つめの案内板を左折すると駐車場に出ます。
ここが重要。二つめの案内板です。県道の一つめの案内板からだとかなり遠く、廃林道を延々歩いて結局はこの駐車場に出てしまうので、最初っから二つめの案内板を左折した方がショートカットで歩く距離が短い。

入口には竹杖が山積みされていた。
石像史跡入口2.jpg竹杖.jpg
入口2.jpg入口1.jpg
私が訪問した日、この岩戸山の何処かから、パン、パンという銃声らしき音がした。狩猟区でもあるようです。
流れ弾に当たったらタイヘン。この散策路から山ん中へは踏み分けない方が無難でしょう。
山道3.jpg山道4.jpg
岩肌の先に.jpg
岩戸山の名にあるように、巨大な岩脈(おそらく安山岩か)の窪みに安置され、見上げると頭上に大岩が今にも落ちて来そうにせり出している。
四十七士石像1.jpg
では何故、この場所に建立したのか。
吉良の陣屋、領地のある上州、上野に建立したのは何故だろう。元助の故郷からだというだけだろうか。
ここからだと吉良の旧領、磯部、人見、松井田の下野谷が見下ろせるんです。何か含むところがあるのではというのは穿った見方だろうか。
吉良の領地を見下ろすのは後世に伝える含みがあったのではないか。
四十七士石像2.jpg
建立した元助については異説がある。
昨日載せた大野九郎兵衛(林遊謙)と、大石内蔵助との繋ぎの役だったという説です。
内蔵助の密書や伝言を九郎兵衛に伝達したのが元助だというのだ。
四十七士石像4.jpg

もう一つ、碓氷群史に意外な記述がある。
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「安中誌によるとこの石像を作ったのは元助ではない。寺坂吉右衛門なりといっている。真偽はもとより不明である」
寺坂吉右衛門?
「吉右衛門ここに在て、亡君の仇吉良上野介源義央を夜討ちして死を賜はりたる浅野内匠頭長矩の家臣四十七人の為に墓碑を上秋間村岩戸観音堂の傍に立つといふ然るに墓碑にあらず、あへて観音の像の如く見ゆ殊に新らしく見ゆるは・・・(略)」
私は間違いではないかと思って碓氷群史を何度も読み返したが、確かに寺坂吉右衛門と載っていた。
元助の正体は寺坂吉右衛門なのだろうか?真偽は不明です。でもこうなると、劇的で小説の世界ではないか。
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赤穂藩逐電家老 大野九郎兵衛伝説 [隠れ郷土史]

今回は、私が上州滞在1年で知った伝説を掲載します。

殿様の名前につく○○守というのがありますよね。
会津中将松平容保公は肥後にいなかったのに肥後守。勝海舟だったら勝安房守。一つの国の守を、複数の殿様が持っていた時代に、上州上野、常陸、上総は守がない。この三国には介がつく。
これは律令国の等級区分で上野、常陸、上総の三国は、皇族が国司となる親王任国という指定だった為。

この制度を知ってか知らずか、織田信長は岐阜にいる頃は織田上野守と名乗っていたが、ちゃんと叙任されたのかどうか疑わしい。おそらくは私称でしょう。
常陸介で有名人は家康の十男、頼宣ぐらいしか知らないが、上野介はいるいる有名人が。
悪役、吉良義央。。。

上野、常陸、下総の中で、上野は最上階の大国だったのだが、その上野には吉良家の領地が3か所あった。藤岡市白石、碓氷郡(安中市)松井田町人見、同じく下野谷の3か所。
高家筆頭の吉良義央が上野介に叙任したのはこの地を領していたからだと思う。その地とまったく無関係なのに現地の名が付く適当な(失礼)叙任より、上野介はそこに領地を持っていた。
これはその一つ、下野谷辺りの夕陽です。
下野谷の風景.jpg
吉良の領地はいずれも飛び地で上野介自ら赴任してたわけではない。それでも藤岡市白石には陣屋があって、吉良家の家臣の誰かが赴任して治めていた。
吉良上野介館跡.jpg吉良家のあったところ.jpg
この陣屋は偶然、見つけたのだが、上野介産湯の井戸と陣屋跡の表示がある。
吉良義央はここで生まれたらしく、ここからもう二~三か所の飛び地、松井田町人見や下野谷も現代なら遠くないし、当時でも途中で一泊する距離でもないので、おそらくはここ白石の代官が治めていたと思われる。
吉良上野介産湯.jpgここで産まれた.jpg
前に載せた磯部温泉の温泉マーク、日本最古の温泉マークは、人見村か下野谷の土地境界訴訟事に添付された地図に載っていたもの。この係争に吉良家の領地が関わっていた可能性は高い。
日本初の温泉マーク.jpg
他にも碓氷川から水を引く治水工事の際、水路が人見村の吉良家の領地を通るのに吉良家が難色を示した話を聞いた。
地元は上野介を殊更悪くいってないが、キャラ的に我が強かったと推測されても仕方がない。学研の資料にはハッキリ、治水工事に上野介が難癖をつけたと言い切っている。

この治水工事の相談に、ある赤穂藩士が関わったという。
大野九郎兵衛知房という人。

知らない人はまずいないのではないか。あの逐電家老です。そんな有名人がこの吉良陣屋から近く、吉良家の飛び地の領地、松井田町人見や下野谷近くの磯部温泉マークのある磯部村に潜伏していた伝説がある。

赤穂藩の経済官僚だった大野九郎兵衛の事績や、赤穂藩改易時のドタバタは割愛するが、逐電家老の汚名をきてこの磯部村に潜伏したという伝説の真意を1年間探ったのだが裏付けは取れなかった。
集めたものや伝承のみ掲載します。

九郎兵衛は林遊謙と改名してこの地にいた。
一つの村を、大名旗本6人が分割して知行するややっこしい行政下だったのだが、その6人の一人が吉良家だったので、ここに九郎兵衛の赤穂浪士二番隊説が出て来る。
それは江戸で浪士が吉良邸討ち入りに失敗したら、上野介は江戸にいられず、実子の弾正綱憲の上杉家からも見放され、おそらく生まれ故郷の上州白石陣屋に逃れて来るだろうと。江戸から離れれば隙も出よう。そこを狙おうというものだった。

九郎兵衛=林遊謙は素性を隠し、自身の草庵(もしくは何処かの寺)に住んで近隣の子供に手習いを教え、井戸を掘ったり、前述の治水工事の際に村人の相談相手になったりして村人に慕われていた。静かに暮らしながらここ磯部や藤岡白石に逃れてくるかもしれない上野介の動静を探っていた。

では何故、林遊謙が大野九郎兵衛とバレたのだろうか。
吉良邸討入大願成就の報が中山道を通して伝わってきた。それを知った日、九郎兵衛は雨戸を閉ざし、興味に惹かれる里人の前に終日、姿を見せず引き籠っていた。
後年、亡くなった時、大石内蔵助からの手紙が見つかった。他にもあって、確認できなかったが、神明神社に九郎兵衛=林遊謙が建てた燈籠があるとか、手習い本が現存するとか。また、潜伏、襲撃に必要な埋蔵金の噂もあるそうです。
九郎兵衛さんと伝わる碑.jpg
九郎兵衛がいた寺は廃寺になって、彼の墓はこの寺、松岸寺に移された。
写真左にある丸みを帯びたのがそう。(奥にある廟は、佐々木三郎盛綱という鎌倉御家人夫婦の墓)
説明版は全くない。だがオカシイのは、九郎兵衛=林遊謙のこの墓碑には、「慈望遊議居士寛延四年九月二十四日」とある。
寛延四年は1751年。将軍は徳川吉宗です。吉良邸討入が元禄15年(1703年)だから、50年弱も生きたことになってしまう。
これは墓ではなく、顕彰碑の類という説もある。
松岸寺1.jpg
(大野九郎兵衛=遊謙の墓碑は松岸寺だけではなく、同じく磯部村の普門寺にもある。
だがそこは同じような墓石がたくさんあってどれだかわからなかった。)
普門寺.jpg
私が小学生に「お坊さん!!」呼ばわりされた安中小学校近くの図書館で碓氷群史を漁っていたら、
「磯部村大字東上磯部に松岸寺といふ寺がある。この境内に大野九郎兵衛の墓だといふ・・・」
「上野介がこの領地に逃れて来たらば之を討取り、亡君の仇を報ひんと・・・」
「義士の快挙がだんだん世間に擴まり賞めたたへるものが多くなっても、遊謙は更に之に耳を貸さないで、何か自ら決する處があったと見え、忽然と何れかへ姿を隠し、遂に行衛を知るものが絶えてなかったと・・・」
「九郎兵衛の浜の真偽に就いては確かに信憑とすべきものがないので・・・(省略)・・・墓石を九太夫様の墓なりと口碑に傳えて疑はないのは、大野九郎兵衛に長者としての徳、畏敬すべき温厚の風格があったに相違なく、必ずしも演劇に見る九太夫の様に唾棄すべき人格者ではなかったことが想像するに難くない」

上州滞在中、この松岸寺を3回ほど訪れた。だが、ご住職はおろか、家人にすら出逢えなかった。
裏付けを取れないまま上州を去ることに相成ったので、伝承のみ記載した次第です。

上州は潜伏し易いのかな。淀君が生きていた?伝説(http://funayama-shika.blog.so-net.ne.jp/2012-06-15)もあるし。

赤穂浪士伝説の続きがもう一譚あります。これです。
四十七士石像3.jpg
九郎兵衛が隠れ住んでいた磯部村から北にある。(続く)
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