町かどのトロッコ [廃線]
私の公用は相手が行政なのでスタートは現地9時~と位置付けている。
高崎市内で9時~だと横浜の実家を6時台に出ないと間に合わないし、準備もあるので5時に起床することもある。
会社が許してくれるなら、前夜泊で高崎入りしたいのだが。。。
ドーミインで8時前に目が覚めた。私にしては寝過ごした方である。
昨夜、ホロ酔いでホテルに戻る途中、「えっ??」って驚いた光景があって、9時台のバスに乗る前、ちょっと見に行こうと。
ホテルのすぐ隣、弘化2年(1845年)創業の藤澤石材店が取り壊し、建て替えになるという。


この店にはトロッコの軌道が残っていた。
藤澤石材店の石切り場(切ったり彫ったり加工したり)は店の奥で行われてたと思います。

店の間口は狭く、奥に長い造りになっている。
これには理由があって、江戸時代・・・おそらく田沼意次か水野忠邦が老中だった頃だと思うが、幕府が税収を上げる為に商家の間口の広さに応じて課税したので、町人たちは税負担を少なくする為に間口を狭くして奥行を長くしたというもの。だから鰻の寝床のようなカタチになったという。
間口税ともいうそうです。課税基準は三間(5.4m)を1軒として課税した。
一間は六尺です。ウチの業界では商品の陳列棚を現在でも「三尺の棚、何本?」という言い方をする。三尺=90cmだから一間は180cm、三間は180cm×3=540cm、ざっと5.4mですね。
こういう商家は旧くからの城下町、蔵の多い街、宿場町に多い。
製造=販売を兼ねている商店や、母屋を兼ねている店は特に奥行が長いので、商家の奥から重量物、例えば味噌、醬油、酒、陶器、灯油、LPガスといったものを運ぶ場合、奥から店頭への単純均一な直線搬送になるのです。藤澤石材店の場合も簡易レールを敷いてトロッコで搬送した。

フォークリフトが無かった時代です。人力以外に動力を必要としない。効率もよく、安定性に優れている。
こういうのを町かど鉄道というそうですが、家人の趣味の範疇ではなく実用です。
私らの知らない何処かの個人商店、家庭、小規模な事業者が経営する工場や製材所の構内に眠っているかも知れない。
ただ、そういうのは未発見というか関係者しか知らない。そりゃ年中稼働してれば人目に触れるだろうけど、いつか稼働しなくなって忘れ去られたまま消えていったのではないか。

形があるまま残すことって難しい。旧い建物なので、現在の建築基準法や防火性、耐震問題等の諸条件をクリアしていない場合が殆どだという。万が一、倒壊、出火でもしたら所有者の責任になるからね。
相続問題もある。昔からの商家は住居兼の場合が殆どだが、所有者の多くは高齢者になって来ているし、次世代に引き渡しても、相続した側から見ればそのまんま引き渡されても維持するのがタイヘン。維持費や修繕費等の負担がかかるから。
心情的にはそのままの姿で存続したくても、現実に厳しい場合が多い。なのでどんどん消えていっている。

過去記事です。
http://funayama-shika-2.blog.so-net.ne.jp/2013-04-16
この時、藤澤石材店のの家人にインタビューしたら、いつかは復活させたいような話を伺ったが、その夢は解体前のイベントという最後のカタチで実現してその日に終わりになった。
奥で立てかけてあったトロッコが、藤澤石材店トロッコさよなら運転という形で11月2日(日)に行われた。
市の広報誌にも載っていたが、私はそれを見ることなく、立ち入り禁止になった解体前の藤澤石材店の前に立っている。

そのさよならトロッコ運転の模様をUPしたBlogを発見しました。
管理人、あつし様の許可を得たのでリンクさせていただきます。
http://a-nobusan.cocolog-nifty.com/blog/2014/11/2014112-bdcc.html?cid=109437679#comment-109437679
御承諾、ありがとうございました。
先日、12月某日、ドーミインをチェックアウトしたら。。



う~ん。。。瓦礫になってしまったか。
これが現実です。瓦礫の下にレールは埋まってるんだろうけど、いずれ撤去されるだろう。
しばし佇み、踵を返して公用に入りました。
高崎市内で9時~だと横浜の実家を6時台に出ないと間に合わないし、準備もあるので5時に起床することもある。
会社が許してくれるなら、前夜泊で高崎入りしたいのだが。。。
ドーミインで8時前に目が覚めた。私にしては寝過ごした方である。
昨夜、ホロ酔いでホテルに戻る途中、「えっ??」って驚いた光景があって、9時台のバスに乗る前、ちょっと見に行こうと。
ホテルのすぐ隣、弘化2年(1845年)創業の藤澤石材店が取り壊し、建て替えになるという。


この店にはトロッコの軌道が残っていた。
藤澤石材店の石切り場(切ったり彫ったり加工したり)は店の奥で行われてたと思います。

店の間口は狭く、奥に長い造りになっている。
これには理由があって、江戸時代・・・おそらく田沼意次か水野忠邦が老中だった頃だと思うが、幕府が税収を上げる為に商家の間口の広さに応じて課税したので、町人たちは税負担を少なくする為に間口を狭くして奥行を長くしたというもの。だから鰻の寝床のようなカタチになったという。
間口税ともいうそうです。課税基準は三間(5.4m)を1軒として課税した。
一間は六尺です。ウチの業界では商品の陳列棚を現在でも「三尺の棚、何本?」という言い方をする。三尺=90cmだから一間は180cm、三間は180cm×3=540cm、ざっと5.4mですね。
こういう商家は旧くからの城下町、蔵の多い街、宿場町に多い。
製造=販売を兼ねている商店や、母屋を兼ねている店は特に奥行が長いので、商家の奥から重量物、例えば味噌、醬油、酒、陶器、灯油、LPガスといったものを運ぶ場合、奥から店頭への単純均一な直線搬送になるのです。藤澤石材店の場合も簡易レールを敷いてトロッコで搬送した。

フォークリフトが無かった時代です。人力以外に動力を必要としない。効率もよく、安定性に優れている。
こういうのを町かど鉄道というそうですが、家人の趣味の範疇ではなく実用です。
私らの知らない何処かの個人商店、家庭、小規模な事業者が経営する工場や製材所の構内に眠っているかも知れない。
ただ、そういうのは未発見というか関係者しか知らない。そりゃ年中稼働してれば人目に触れるだろうけど、いつか稼働しなくなって忘れ去られたまま消えていったのではないか。

形があるまま残すことって難しい。旧い建物なので、現在の建築基準法や防火性、耐震問題等の諸条件をクリアしていない場合が殆どだという。万が一、倒壊、出火でもしたら所有者の責任になるからね。
相続問題もある。昔からの商家は住居兼の場合が殆どだが、所有者の多くは高齢者になって来ているし、次世代に引き渡しても、相続した側から見ればそのまんま引き渡されても維持するのがタイヘン。維持費や修繕費等の負担がかかるから。
心情的にはそのままの姿で存続したくても、現実に厳しい場合が多い。なのでどんどん消えていっている。

過去記事です。
http://funayama-shika-2.blog.so-net.ne.jp/2013-04-16
この時、藤澤石材店のの家人にインタビューしたら、いつかは復活させたいような話を伺ったが、その夢は解体前のイベントという最後のカタチで実現してその日に終わりになった。
奥で立てかけてあったトロッコが、藤澤石材店トロッコさよなら運転という形で11月2日(日)に行われた。
市の広報誌にも載っていたが、私はそれを見ることなく、立ち入り禁止になった解体前の藤澤石材店の前に立っている。

そのさよならトロッコ運転の模様をUPしたBlogを発見しました。
管理人、あつし様の許可を得たのでリンクさせていただきます。
http://a-nobusan.cocolog-nifty.com/blog/2014/11/2014112-bdcc.html?cid=109437679#comment-109437679
御承諾、ありがとうございました。
先日、12月某日、ドーミインをチェックアウトしたら。。



う~ん。。。瓦礫になってしまったか。
これが現実です。瓦礫の下にレールは埋まってるんだろうけど、いずれ撤去されるだろう。
しばし佇み、踵を返して公用に入りました。
2014-12-16 06:46
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横浜ドリームランド外周列車を発見 [廃線]

この古写真、写っているのはジャン父(故人)と幼少の私です。背後に走っているのは昭和39年(1964年)8月開園~平成14年(2002年)2月17日に閉園した横浜ドリームランド初期の頃にランド周囲を走っていた外周列車というもの。
運行期間は短く、昭和45年(1970年)ランド敷地内、冒険の国他を公団ドリームハイツに売却したことでこの外周列車は消滅。
実際はもっと前に運行停止になっていたようです。

この外周列車のデータはネット上にしかない。
HPドリームランドメモリーズの中に開業前のランド航空写真があり、雑誌レジャー産業1968.9号からの転用航空写真左に外周列車の線路と駅が写っている。
http://members.jcom.home.ne.jp/dream41834/dream1003.htm
もう一つは「YouTube横浜ドリームランド前編」に、外周列車現役の勇姿が映像として残されている。



数少ない一級資料といっていいが、ネット上の史料はもう一つあって、図々しくもそれはかくいう私の船山史家の呟きⅠ、詳細は過去Blogを見ていただきたいのですが、そこでは推測も交えて幾つかの謎に挑んだつもり。
①外周列車は当時の地方鉄道法で認可されたもの。
(おそらく園内施設の遊覧鉄道のレベルではなくもう少し本格的なものでしょう。)
②レールの規格は姉妹園だった奈良ドリームランド外周列車が日本国有鉄道規格1067mm軌間だったので、おそらく横浜ランド外周列車も同じではないか。
③機関車の燃料、動力はディーゼルエンジンだった。
④車両は奈良ランドの車両製作と同じ帝国車両(後の東急車輛)と推測。
⑤途中駅や踏切もあった。
⑥乗車料金は当時の金額で70円だった。
⑦現在のどの辺りを走っていたのかを歩いてみた。
⑧外周列車以外にも豆汽車があった。
⑨正式廃止日時は公団ドリームハイツに売却した昭和45年(1970年)頃。
ランド開園が昭和39年、私は38年生まれなので、私がこの外周列車に乗ったのは1歳の頃で記憶にない。冒頭1枚目のモノクローム写真でジャン父に抱かれた風景、この場所も正確にはわからない。
既にランドは閉園され、現在は市と県のドリームハイツ、横浜薬科大学、俣野公園、横浜薬大スタジアム他になっている。
大観覧車(ワンダーホイール)、シャトルループ、ボブスレーならともかく、ずっと前に消滅した外周列車なんか知ってる人はそうそういないだろう。

今回、このネタを掘り起こしたのは、昨年の10月、秋雨の中を横浜市内某所の裏道を走ってたらそこがメチャ狭い生活道路で行き違いスペースが限られ、幼稚園か保育園の前にお迎えスペース分、道幅が若干広い箇所があって、そこで対向車をやり過ごしたら、左手の幼稚園の植木の葉の隙間から小っちゃいSLが見えたのである。

くるまを停めて覗いてみた。

何だこれは?
よく旧国鉄のSLがデンと重々しく鎮座している公園はあるが、このSLは小っちゃいミニSLといった感じ。単なるモニュメントだろうか?
その日は土曜か日曜だったので園児も先生もいない。広い園内で運動会シーズなのか園庭には旗飾りが舞っていた。
正門も錠が架かっているので門の隙間から手を伸ばして正面からカメラに収めた。
後日、何なのか調べてみたら、どうもこのミニSLこそ横浜ドリームランドの外周列車、牽引していた機関車らしいのが判明した。私のアルバムに載っていたものである。
心中、火が点いてしまった私は即座に幼稚園に電話しましたよ。園児を相手にしてるだけあって元気なお声が返ってきた。
「ハイ○○幼稚園ですっ」
「初めてお電話します。横浜市○○区在住の○○という者ですが、そちらに置いてあるSLについてお話をお伺いしたいのです。あれはもしかして横浜ドリームランドを走ってた外周列車ではないですか?」
「ハイそうですよく御存じですね。確かにドリームランドを走っていたものですが、でも当時の事情を知っている者はもういないんですよ」
確かにそうだろう。
ランドが閉園して10年、その前に外周列車が廃止になってから40数年経っている。事情を知る方も鬼籍に入られたに違いない。
押しかけたら迷惑かと思ったが、こっちも後に引けなくなった。
「そうですか。ではご迷惑でないようにおじゃまして写真に収めることは可能でしょうか?」
俺だってこういう丁寧語を喋れるんです。そしたらあっさりOKが出たのである。
「よろしいですよ。いつだったか先日も女優の五大路子さんが見に来られたので・・・」
五大路子さん?
私は知らないです。舞台女優さんかな。旦那さんの大和田信也さんは知ってますけど。五大さんは2013年8月にこの公園を訪れておられます。
http://hamonika.cocolog-nifty.com/godai/2013/08/post-f7ff.html
写真はもちろんだが、できればお話もうかがってみたいものである。
「私の実家に、そちらの機関車の現役時代の写真が2枚あるんですよね」
これに相手はハマった。
「そ、そうなんですか?では平日でしたらいつでもお出でください。来られたら事務所に来て言っていただければ。。。」と相成った次第。
アポが取れた。ランドを走ってたのも確認できた。となると早い方がいい。たまたまジャン母が入院することになり(もう退院しております)入院手続きで有休取った平日午後、SLを間近で観る為に幼稚園に赴いた。
園児がたくさんいる。
平日だからアタリマエか。先生も数人いる。なかなか賑やかな幼稚園である。
だけどただでさえ園児誘拐なんていう変な事件が多発している昨今、こういう場に私みたいなのがウロついてたらアヤしまれかねない。訪問販売のように見られるのも心外だし。
私は園児に接してたひとりの先生に、「事務室は何処でしょうか?」と尋ねた。
奥の建物だという。そこへ行って名前を名乗り、「先日電話でドリームランドの機関車をお訪ねした者です」と言ったら目が輝いた。
「お電話を頂いたあの方ですね」、職員さんが3人もでてきた。
冒頭のモノクロ写真を見せて、「これがあの機関車の現役時代の雄姿です」と説明したら職員さんは跳びあがるように喜んだものである。
「わぁ~見てみてこれ、あの子だって、ホントだぁ走ってる凄い凄い」
ここで女性の職員さんはSLをあの子と呼んでいる。今は動かない走らない機関車だが、やはり園児に接してるだけにそういう夢?遊びの感情が豊かなんですね。SLも大事にされているのがわかった。
「お時間は取りませんので写真を撮らせて下さい。それと車輪の幅を計らせていただければ。。。」
「車輪の幅?」
「車輪の間の距離です。それでレールの規格が大体わかるんです」
快く了承をいただいた。私はYouTubeにも現役時代の動画がUpされてることを教えた。それに返すように男性の職員さんが言うには、
「あのSLはここの先代の理事長が(園長だったかも)が鉄工所の関係(知り合い?)で、安いキロ当たり幾らの鉄屑みたいな金額で買い取ってここに運んだんだそうです」
「そうですか。て、鉄屑だったんですね。でもここに来る前は何処にあったんですか?」
「う~ん、それが・・・何処から運んだのかはわからないんですよ」
「あれって何で動いてたんですかね。まさか石炭?」
「ディーゼルっぽいです。動かなくなった今でも油の臭いがしますから」
「うん、今でも何となく軽油の臭いがするよね」
やはりそうか。SLもどきのDLだったんだな。
「あれはず~っとあのままなんですか?」
「今はそのまんま置いてありますがいずれレールの上に載せる予定です。その方が園児も喜ぶし・・・」
「レールもあるんですか?」
「ありますよ。置いてあります。ご案内します」
案内していただいた。
レールは園庭の端に無造作に置かれていた。

細いタイプだった。迂闊にもレールを計測するのを忘れてしまったが、30kgレールではないだろうか。地方のローカル鉄道の構内で留置線によくある細いタイプです。現在は製造されていません。
レールを撮影している間に、男性職員さんがSL前方部に掛かっていたホロを外してくれた。



SL君に見入る。(DLだけど)
50年ぶりの再会である。
ブルーのタンク、ボディ。錆もなくはないが塗装し直されていた。
「ここにドリームランドってありますね」
ボディのプレートにDREAMLANDと打ってある。これで間違いない。私のモノクロ写真に写っていたSL君なのが証明された。


ボディには製作社の名前も打ってあった。
富士車輌とある。昭和39年製作である。
奈良ドリームランド(2006年8月閉園)の車両製作は帝国車両(後の東急車輛)だったが・・・。
現在の富士車輌株式会社は廃棄物や鉄をスクラップする環境設備機械やゴミ収集車を製作する会社でレール上を走行する車輛は製作していない。でもかつては旧国鉄の貨車他、幾つかの車輛を製作していたらしいのだ。
連結器は見た事のないタイプだった。




潜って車輪の間を計った。これで軌道の規格が概略わかるハズ。
700mmだった。車輪の幅を考慮するとおそらく762mm(30インチ=2フィート6インチ)のニブロク軌道、ナローゲージと言っていい。
日本の標準軌道幅、ゲージは1067mmが圧倒的に多い。
760mm幅ゲージは軽便鉄道に多く存在したが、現在762mm線路幅の鉄道は三重県内の三岐鉄道北勢線、近畿日本鉄道内部線、富山県にある黒部渓谷鉄道だけです。


職員さんと二人で、しばしSLを見つめた。
「もう動くことはないだろうけど、よく残ってましたね」
職員さんは、「レールに載せたらご連絡致しましょうか?」そこまで言ってくれたのだが、私はそれは固辞しました。ここにあるだけで充分です。
この幼稚園の名前は取り敢えず今回は伏せさせていただきます。横浜市○区です。職員さんは見学に好意的でしたが、訪れる際は必ず事前に電話を入れてアポを取ってください。
それとそこへ至る道が狭いです。普通自動車ですれ違いできる個所は限られています。それでいて通行車両が少なくないので私も2回ほどアタマから突っ込んで対向車をやり過ごしました。通学路なので時間帯によっては学生さんも多いんです。
職員さんに、「ここに運んだ?あの狭い道をですか?」って聞いたら職員さんも「う~ん・・・」って固まった。それだけ狭い道なのだ。

このSL君の現役時代は短かった。
もっと走りたかったかも知れないし、かつて牽引した仲間たちはもういない。でも走ることはなくてもここで園児たちに囲まれて幸せな老後余生を送って欲しいものである。
2014-05-07 05:29
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軍用列車 岩鼻軽便鉄道 [廃線]
群馬の森では花や木々を眺めることを全くしないまま、公園よりも周辺のアヤしい建造物を見て回りました。
思ったのは、ここで製造された弾薬をどうやって運んだのだろうかということ。
ダイナマイト碑他には、明治の創業時には水運云々と記されていたが、時代とともにそれじゃぁ追いつかなくなったに決まっている。
鉄路ではないだろうか。
ここへ来る途中、ぐるりんで通過したアヤしげな踏切、引き込み線を思い出した。。。


公園を出てぐるりんバス停を見たら本数が少ない。右足も痛いしタクシーを呼ぼうと決めた。
でもあの踏切、高架の単線が気になる。右足を引きずるようにして徒歩で踏切まで戻ったんです。ここまで来たのだし、後で机上で調べるにしても写真がないと恰好がつかないからね。
(仕事もそこまで執念燃やせばいいのにね。ジャン妻)
うるさいっつーの。アヤしげな単線、その先の高架で突然途切れる単線の踏切は第三栗崎踏切という。JA岩鼻と岩鼻小学校の先です。


途切れた単線を渡る踏切。この単線は何の意味があるのだろうか。

踏切に立って東方向を見たら、踏切を通り過ぎてから徐々に高架で鉄路が上がって行き、途中でプツッと切れている。周囲の地形が粕川の河原に向かって下がっているので鉄路を高架にしたようである。
何だか未成線に見える。
高架は近代的なコンクリート橋で、昭和56年の竣工だそうです。




西方面を望むと高崎線の倉賀野駅方面です。
ここからだと倉賀野駅は見えない。広々とした貨物操車場が見える。構内をディーゼル機関車がせっせと働いているのが遠目に見えた。



再度、目を東に向け、未成線のように見える高架先端方面を目指した。
途中、道が高架から逸れたので、高架を潜って反対側に出て眺めて思いついたのは、この高架はここまで造って「作るの止~めた」・・・というものではない。現在は途切れている先端部まで貨物列車を牽引し、一旦は停車して連結部を外し、別の機関車が西の貨物の先端に引っ付き、スイッチバックのように構内に入れ替えて戻る為に必要な長さなのではないか。
歩いて見てこの辺りの地形は粕川に向かって下がっているので、地べたに敷設したら下り坂で暴走してしまうだろう。だから高架にせざるを得なかったのである。
ではその為にわざわざ土地を買収したのか。いやそうではあるまい。もともと鉄路があったに違いない。先刻見物した火薬製造所へ向かう引込線だったのが、現在は貨物列車引き込みの為に高架に化けたものではないか。
でもその先へ散策する気力が萎えた。足首が痛みこれ以上の散策に耐えられなかったのである。倉賀野駅付近に待機しているタクシーを呼んだ。
「岩鼻JA、小学校の正門前・・・」
タクシーは5分で来た。最寄の駅は新町駅か倉賀野駅だが迷わず倉賀野駅にしたのはこの引込線が倉賀野駅で本線に接続するからです。その現在線こそ岩鼻火薬製造所から火薬を運搬していた貨物鉄道の名残ではないだろうか。
他に近隣の駅で北藤岡駅がある。でもそれは本線から分岐した八高線のみの単線ホームしかない。
新町駅だと烏川を渡らなくてはならない。敷設するのは余計な金がかかる。
倉賀野駅に決まっている。
途中で踏切で待たされた。さっきヤードで働いていたディーゼル機関車がタンク車を率いてゆっくりゆっくり倉賀野駅方面へ去っていく。

倉賀野駅で待つ間のこと。
東京方面から電気機関車に牽引されたタンクの貨物列車が長々とやってきた。それらは倉賀野駅の4番線ホームか?・・・横づけ停車した。

停まった際の列車の金属音の凄いこと。ガシャガシャガッシャーンという音が構内に響き渡った。ここは都心部と違って暗騒音がないので余計にヤカマしく聞こえた。
そういえばあの踏切、高架引込線のすぐ傍には住宅もあったから、中途半端な高架とはいえ住んでる家の裏でこんな激しい金属音が響いたらヤカマしくてしょーがないだろう。
運転士もそこは配慮して静かにゆっくり走行すると思うが、夜なんかに家の裏手の窓を開けてみたら幽霊列車みたいに停車しているのだろうな。

東京方面から来た貨物列車、タンク車には多くに「根岸駅常備」と銘打ってあった。
根岸駅ったら私の地元、公用圏でもある。おそらく武蔵野貨物線経由で高崎線に入ってここまで来たのではないか。
後日、年明けの根岸駅ヤードです。 ↓ ここから倉賀野駅まで貨物が出発する。

倉賀野駅に戻ります。しばらくしたらまたまた働き者のディーゼル機関車がヒョコヒョコ走って来て貨物列車の東京方面の先端に連結した。健気にも一生懸命に引っ張って岩鼻方面へ消えていった。
岩鼻火薬製造所の時代もこの流れで空車が搬送されていったに違いない。


戻って机上で調べてみたら、JTBキャンブックス、鉄道廃線跡シリーズⅨに岩鼻軽便鉄道というのが載っていた。会津鉄道の湯野上温泉~芦ノ牧温泉の次頁に掲載されていた。
要点を抜粋すると、明治27年(1894年)、倉賀野駅が開業され、岩鼻火薬製造所で製造された火薬類は倉賀野駅まで荷馬車でトコトコ搬送され積み替えられたが、火薬生産量が増大したので地元の人が「岩鼻軽便鉄道株式会社」を設立、大正6年(1917年)4月に開通する。
軽便鉄道だが軌間は1067mm、2.6kmのミニ私鉄、途中駅は無し、倉賀野駅~火薬製造所方面、上州岩鼻駅の始点終点のみ。
複線区間なし、電化区間なし。
岩鼻軽便鉄道株式会社は社員数10人ほどで自前の機関車も貨車も運転手も車掌もいなかったそうです。
列車運転と管理はその頃は鉄道院といった国鉄に委託していた。鉄路を測量するのにも鉄道院のノウハウを借用したそうである。地元で出資しただけみたいですね。
一般貨物も僅かながらあったらしいが一般乗客は無かったようである。でもまぁアタリマエか。アブない火薬類を搬送する軍の専用鉄道といっていい。
本社は上州岩鼻駅の駅舎を間借りしていたそうです。
軽便鉄道だと軌間が762mmのケースが多いが何故に軽便なのに軌間1067mmなのか。
理由は簡単。わざわざ鉄路を敷いたのに軌間が二種類あると、倉賀野駅構内まで運んで来たアブないモノをそこで積み替えなきゃならなくなるからでしょう。
私が倉賀野駅構内で観察したように、同じ軌間の方が搬送が容易だからに決まってる。
史料の地図で見たら、廃線跡と現在の引き込み線が重なっているのがなんとなくわかる。

当時は現在のような高架ではなく少しずつ下がっていき、粕川を渡って右にカーブして上州岩鼻駅構内に滑り込んでいたようである。でも川に橋脚の残骸とかは無さそうとの事であった。
現在の地図を見ると高架線が途切れた先に細い道がカーブしているのがわかるからおそらくこれがそのラインでしょう。
その先、上州岩鼻駅は現在の日本原子力研究所開発機構高崎量子・応用研究所内の何処かにあったそうです。

運ぶモノがモノだけに会社経営は順調だったそうだが、製造所敷地が拡張されたことで上州岩鼻駅が施設内に取り込まれてしまった。
現在の日光例幣使街道が東西に食い違っているのもそのせいです。そしたら軍部から、「軍用施設に私鉄が乗り入れるのは機密保持上如何なものか」という堅い達しにより国に買収される事になった。でもその前に終戦になり、運搬するモノ自体がなくなって鉄道そのものの存続意義を失ってしまったんだな。
廃止するしかないが、その前に買収して誰かが鉄路を管理しなきゃならない。幸い終戦後に予定どおり買収され、鉄道敷地は大蔵省の管理下に置かれた。正式には昭和20年(1945年)に廃線になったらしい。
鉄路は15年ほど草に埋もれて眠っていたが、昭和35年(1960年)以降、倉賀野駅構内が幾社かの貨物基地として整備することで岩鼻軽便鉄道は鉄路の赤錆を落として蘇る。
亜細亜石油、これは現在のJX日鉱日石エネルギー社、他にも関東電工、昭和石油、太平洋セメント、日本ケロッグの各専用線が分岐していく。
幾つかの専用線、自動車基地、飼料基地は廃止されたが、石油基地とコンテナ基地が現在も稼働している。岩鼻軽便鉄道旧鉄路上を毎日貨車が通過しているといっていい。
戦時中までの使命を果たし、平和な現代に軍用鉄道の一部が蘇ったというわけ

今回の散策はこれで終わり。ジャン妻を同行させなくてよかったです。結構歩いたし、同行させたら、「まだ歩くの?」、「何処まで行くの?」、「早く帰ろうよ」、「コーヒー飲ませろ」ってブゥタレるに決まってっからね。
思ったのは、ここで製造された弾薬をどうやって運んだのだろうかということ。
ダイナマイト碑他には、明治の創業時には水運云々と記されていたが、時代とともにそれじゃぁ追いつかなくなったに決まっている。
鉄路ではないだろうか。
ここへ来る途中、ぐるりんで通過したアヤしげな踏切、引き込み線を思い出した。。。


公園を出てぐるりんバス停を見たら本数が少ない。右足も痛いしタクシーを呼ぼうと決めた。
でもあの踏切、高架の単線が気になる。右足を引きずるようにして徒歩で踏切まで戻ったんです。ここまで来たのだし、後で机上で調べるにしても写真がないと恰好がつかないからね。
(仕事もそこまで執念燃やせばいいのにね。ジャン妻)
うるさいっつーの。アヤしげな単線、その先の高架で突然途切れる単線の踏切は第三栗崎踏切という。JA岩鼻と岩鼻小学校の先です。


途切れた単線を渡る踏切。この単線は何の意味があるのだろうか。

踏切に立って東方向を見たら、踏切を通り過ぎてから徐々に高架で鉄路が上がって行き、途中でプツッと切れている。周囲の地形が粕川の河原に向かって下がっているので鉄路を高架にしたようである。
何だか未成線に見える。
高架は近代的なコンクリート橋で、昭和56年の竣工だそうです。




西方面を望むと高崎線の倉賀野駅方面です。
ここからだと倉賀野駅は見えない。広々とした貨物操車場が見える。構内をディーゼル機関車がせっせと働いているのが遠目に見えた。



再度、目を東に向け、未成線のように見える高架先端方面を目指した。
途中、道が高架から逸れたので、高架を潜って反対側に出て眺めて思いついたのは、この高架はここまで造って「作るの止~めた」・・・というものではない。現在は途切れている先端部まで貨物列車を牽引し、一旦は停車して連結部を外し、別の機関車が西の貨物の先端に引っ付き、スイッチバックのように構内に入れ替えて戻る為に必要な長さなのではないか。
歩いて見てこの辺りの地形は粕川に向かって下がっているので、地べたに敷設したら下り坂で暴走してしまうだろう。だから高架にせざるを得なかったのである。
ではその為にわざわざ土地を買収したのか。いやそうではあるまい。もともと鉄路があったに違いない。先刻見物した火薬製造所へ向かう引込線だったのが、現在は貨物列車引き込みの為に高架に化けたものではないか。
でもその先へ散策する気力が萎えた。足首が痛みこれ以上の散策に耐えられなかったのである。倉賀野駅付近に待機しているタクシーを呼んだ。
「岩鼻JA、小学校の正門前・・・」
タクシーは5分で来た。最寄の駅は新町駅か倉賀野駅だが迷わず倉賀野駅にしたのはこの引込線が倉賀野駅で本線に接続するからです。その現在線こそ岩鼻火薬製造所から火薬を運搬していた貨物鉄道の名残ではないだろうか。
他に近隣の駅で北藤岡駅がある。でもそれは本線から分岐した八高線のみの単線ホームしかない。
新町駅だと烏川を渡らなくてはならない。敷設するのは余計な金がかかる。
倉賀野駅に決まっている。
途中で踏切で待たされた。さっきヤードで働いていたディーゼル機関車がタンク車を率いてゆっくりゆっくり倉賀野駅方面へ去っていく。

倉賀野駅で待つ間のこと。
東京方面から電気機関車に牽引されたタンクの貨物列車が長々とやってきた。それらは倉賀野駅の4番線ホームか?・・・横づけ停車した。

停まった際の列車の金属音の凄いこと。ガシャガシャガッシャーンという音が構内に響き渡った。ここは都心部と違って暗騒音がないので余計にヤカマしく聞こえた。
そういえばあの踏切、高架引込線のすぐ傍には住宅もあったから、中途半端な高架とはいえ住んでる家の裏でこんな激しい金属音が響いたらヤカマしくてしょーがないだろう。
運転士もそこは配慮して静かにゆっくり走行すると思うが、夜なんかに家の裏手の窓を開けてみたら幽霊列車みたいに停車しているのだろうな。

東京方面から来た貨物列車、タンク車には多くに「根岸駅常備」と銘打ってあった。
根岸駅ったら私の地元、公用圏でもある。おそらく武蔵野貨物線経由で高崎線に入ってここまで来たのではないか。
後日、年明けの根岸駅ヤードです。 ↓ ここから倉賀野駅まで貨物が出発する。

倉賀野駅に戻ります。しばらくしたらまたまた働き者のディーゼル機関車がヒョコヒョコ走って来て貨物列車の東京方面の先端に連結した。健気にも一生懸命に引っ張って岩鼻方面へ消えていった。
岩鼻火薬製造所の時代もこの流れで空車が搬送されていったに違いない。


戻って机上で調べてみたら、JTBキャンブックス、鉄道廃線跡シリーズⅨに岩鼻軽便鉄道というのが載っていた。会津鉄道の湯野上温泉~芦ノ牧温泉の次頁に掲載されていた。
要点を抜粋すると、明治27年(1894年)、倉賀野駅が開業され、岩鼻火薬製造所で製造された火薬類は倉賀野駅まで荷馬車でトコトコ搬送され積み替えられたが、火薬生産量が増大したので地元の人が「岩鼻軽便鉄道株式会社」を設立、大正6年(1917年)4月に開通する。
軽便鉄道だが軌間は1067mm、2.6kmのミニ私鉄、途中駅は無し、倉賀野駅~火薬製造所方面、上州岩鼻駅の始点終点のみ。
複線区間なし、電化区間なし。
岩鼻軽便鉄道株式会社は社員数10人ほどで自前の機関車も貨車も運転手も車掌もいなかったそうです。
列車運転と管理はその頃は鉄道院といった国鉄に委託していた。鉄路を測量するのにも鉄道院のノウハウを借用したそうである。地元で出資しただけみたいですね。
一般貨物も僅かながらあったらしいが一般乗客は無かったようである。でもまぁアタリマエか。アブない火薬類を搬送する軍の専用鉄道といっていい。
本社は上州岩鼻駅の駅舎を間借りしていたそうです。
軽便鉄道だと軌間が762mmのケースが多いが何故に軽便なのに軌間1067mmなのか。
理由は簡単。わざわざ鉄路を敷いたのに軌間が二種類あると、倉賀野駅構内まで運んで来たアブないモノをそこで積み替えなきゃならなくなるからでしょう。
私が倉賀野駅構内で観察したように、同じ軌間の方が搬送が容易だからに決まってる。
史料の地図で見たら、廃線跡と現在の引き込み線が重なっているのがなんとなくわかる。

当時は現在のような高架ではなく少しずつ下がっていき、粕川を渡って右にカーブして上州岩鼻駅構内に滑り込んでいたようである。でも川に橋脚の残骸とかは無さそうとの事であった。
現在の地図を見ると高架線が途切れた先に細い道がカーブしているのがわかるからおそらくこれがそのラインでしょう。
その先、上州岩鼻駅は現在の日本原子力研究所開発機構高崎量子・応用研究所内の何処かにあったそうです。

運ぶモノがモノだけに会社経営は順調だったそうだが、製造所敷地が拡張されたことで上州岩鼻駅が施設内に取り込まれてしまった。
現在の日光例幣使街道が東西に食い違っているのもそのせいです。そしたら軍部から、「軍用施設に私鉄が乗り入れるのは機密保持上如何なものか」という堅い達しにより国に買収される事になった。でもその前に終戦になり、運搬するモノ自体がなくなって鉄道そのものの存続意義を失ってしまったんだな。
廃止するしかないが、その前に買収して誰かが鉄路を管理しなきゃならない。幸い終戦後に予定どおり買収され、鉄道敷地は大蔵省の管理下に置かれた。正式には昭和20年(1945年)に廃線になったらしい。
鉄路は15年ほど草に埋もれて眠っていたが、昭和35年(1960年)以降、倉賀野駅構内が幾社かの貨物基地として整備することで岩鼻軽便鉄道は鉄路の赤錆を落として蘇る。
亜細亜石油、これは現在のJX日鉱日石エネルギー社、他にも関東電工、昭和石油、太平洋セメント、日本ケロッグの各専用線が分岐していく。
幾つかの専用線、自動車基地、飼料基地は廃止されたが、石油基地とコンテナ基地が現在も稼働している。岩鼻軽便鉄道旧鉄路上を毎日貨車が通過しているといっていい。
戦時中までの使命を果たし、平和な現代に軍用鉄道の一部が蘇ったというわけ

今回の散策はこれで終わり。ジャン妻を同行させなくてよかったです。結構歩いたし、同行させたら、「まだ歩くの?」、「何処まで行くの?」、「早く帰ろうよ」、「コーヒー飲ませろ」ってブゥタレるに決まってっからね。

2014-01-31 08:36
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未だ見ぬ里見3号(號三第)橋台よ [廃線]
烏川上流に稼働していた里見軌道。
その計画線上にある明治後半に敷設された3つの橋台は高崎市水道局の上水道ラインだったのだが、それと重なり、橋台は軌道未成線では?という夢を見せてくれた。

橋台の正体が判明し、上流の軌道跡も散策し、心置きなく上州を引き上げたのだが、またぞろ私の血を呼び覚ますことが起きた。
前橋在住の方からコメントをいただいたのです。
『はじめまして。前橋市在住の22歳です。私は小学6年生のときにこの橋を発見して以来謎に思っていました。里見軌道や上州電気鉄道の関係か?と夢を抱きつつも時代の違いなど納得できない点が数多くありました。今回このレポを読んで長年の謎が解けました。』
問題はその次です。
『ちなみに2号、5号、6号の橋台の他に3号?が残っていますよ。八幡霊園の谷側の道を5号に向かって見てください。右手にあります。』
というのである。
未だ見ぬ3号(號三第)橋台があるって?
それは捨て置けない。次回の上州訪問時に見に行こうと期するものがあった。

八幡霊園の中央管理棟近くの駐車場に停め、段丘の端まで歩いた。途中の区画の路上には駐車禁止だからです。
暑い。。。
既に初夏の陽気になっている。
上州の陽射しは熱い。アスファルトに照り返す。アタマのてっぺんがチリチリする。
霊園の彼方に見える山々は青空に映え、上州に帰って来てる実感を改めて呼び起こした。もう1年だけいたかったっていう思いに行き付いてしまう。今でも。
途中から霊園区画から離れ、そこだけ土の地面になっている広場に降りて行く。
二号(號二第)橋台です。
久々の再会。
(僅か4ヶ月ぶりともいえる。)
木々や草が生い茂り、合間から垣間見える程度。


降りてみた。



番号を確認したらやはり二号。三号(號三第)はここから西北、霊園の崖に沿って何処かにある筈。

だがそこから先は凄い藪で崖下が見えない。
霊園の谷川の道を歩いて時折目を向けても藪だらけで全く目視できない。
ついに行き止まりになった。

最西北端の区画を通って原っぱに出た。
ヘビとか出てこねぇだろうな。
フェンスが途切れていた。


踏み込んでみたいが足元がまったく見えないので自重し、引き上げました。発見できなかったんです。
今回は断念しました。でもせっかくなので、5号(號五第)、6号(號六第)と再会しました。





上州電気鉄道未成線橋台とも。

戻ってから地形図を見てみたのだが、右下の四角いのが2号(號二第)橋台です。斜めに通っている水路みたいなのがあるから、3号(號三第)はここを跨いでいるんじゃないだろうか。

冬場まで無理ですね。
捲土重来を期して、3号(號三第)橋台よ、いつか会おう。
その計画線上にある明治後半に敷設された3つの橋台は高崎市水道局の上水道ラインだったのだが、それと重なり、橋台は軌道未成線では?という夢を見せてくれた。

橋台の正体が判明し、上流の軌道跡も散策し、心置きなく上州を引き上げたのだが、またぞろ私の血を呼び覚ますことが起きた。
前橋在住の方からコメントをいただいたのです。
『はじめまして。前橋市在住の22歳です。私は小学6年生のときにこの橋を発見して以来謎に思っていました。里見軌道や上州電気鉄道の関係か?と夢を抱きつつも時代の違いなど納得できない点が数多くありました。今回このレポを読んで長年の謎が解けました。』
問題はその次です。
『ちなみに2号、5号、6号の橋台の他に3号?が残っていますよ。八幡霊園の谷側の道を5号に向かって見てください。右手にあります。』
というのである。
未だ見ぬ3号(號三第)橋台があるって?
それは捨て置けない。次回の上州訪問時に見に行こうと期するものがあった。

八幡霊園の中央管理棟近くの駐車場に停め、段丘の端まで歩いた。途中の区画の路上には駐車禁止だからです。
暑い。。。
既に初夏の陽気になっている。
上州の陽射しは熱い。アスファルトに照り返す。アタマのてっぺんがチリチリする。
霊園の彼方に見える山々は青空に映え、上州に帰って来てる実感を改めて呼び起こした。もう1年だけいたかったっていう思いに行き付いてしまう。今でも。
途中から霊園区画から離れ、そこだけ土の地面になっている広場に降りて行く。
二号(號二第)橋台です。
久々の再会。
(僅か4ヶ月ぶりともいえる。)
木々や草が生い茂り、合間から垣間見える程度。


降りてみた。



番号を確認したらやはり二号。三号(號三第)はここから西北、霊園の崖に沿って何処かにある筈。

だがそこから先は凄い藪で崖下が見えない。
霊園の谷川の道を歩いて時折目を向けても藪だらけで全く目視できない。
ついに行き止まりになった。

最西北端の区画を通って原っぱに出た。
ヘビとか出てこねぇだろうな。
フェンスが途切れていた。


踏み込んでみたいが足元がまったく見えないので自重し、引き上げました。発見できなかったんです。
今回は断念しました。でもせっかくなので、5号(號五第)、6号(號六第)と再会しました。





上州電気鉄道未成線橋台とも。

戻ってから地形図を見てみたのだが、右下の四角いのが2号(號二第)橋台です。斜めに通っている水路みたいなのがあるから、3号(號三第)はここを跨いでいるんじゃないだろうか。

冬場まで無理ですね。
捲土重来を期して、3号(號三第)橋台よ、いつか会おう。
2013-07-16 12:39
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世附森林鉄道 [廃線]
ゲッ!!
林道が崩落してるっ!!

う~ん、これは無理かな。
コンクリの擁壁幅は30cmあるかどうか。その上を歩けるだろうか。
左を見下ろしたら世附川の河原まで数メートルあるぞ。


風も強いし。今日は断念するか。
止めたっ!!
撤退する勇気を選択しました。取って返した。
案外と短い散策だった。ここまで見つけた遺構は一か所だけだった。
西丹沢の林道にいます。(正式には県道)
くるまを世附キャンプ場に停めて徒歩で来ました。
確かにこの林道の入口、浅瀬という地には、車止めのゲートが設置されていたんです。

ゲートを見ると、
『事故多発の為、自転車通行禁止』・・・
・・・これなら自転車はNGだが徒歩ならOKなのかと勝手に思ったのが、もう1枚貼り紙があって、
『この先、災害により林道が崩壊しています。新たな崩壊や崩壊箇所が拡大する恐れがあり、非常に危険なため、関係者以外の入林および林道通行を禁止します。』
2010年9月に発生した台風9号の土砂崩れの影響で林道がズタズタに崩壊したそうです。台風9号は、船山温泉裏手の山を崩してクレソン畑を全滅させ、大森山の木々を崩落させ、船山川を荒涼と化した雨台風でした。
この散策は2013年6月だったのですが、その時点で、丹沢湖の西、浅瀬より先は自動車はもちろん、歩行者も含め全面通行止めとなっています。
でも私は散策の帰途、地元関係者の軽トラに追い抜かれた。それと崩落現場に工事重機があったので、工事関係者は入っています。

私が散策した林道は丹沢湖に流れる世附川を遡るルート。正式名は神奈川県道・山梨県道729号山北山中湖線という長ったらしい名前で、簡単に言うと丹沢湖と山中湖を結ぶ一般県道の筈なのだが、県境区間は通り抜けできない。
事実上は神奈川県と山梨県で別個に存在してクローズしている。

この林道に、昭和9年(1934年)~昭和41年(1966年)の約30年間、世附森林鉄道(軌道)が走っていた。
西丹沢を流れる世附川沿いに敷設された木材運搬用の森林鉄道で、浅瀬橋で二つに分岐する。北の地蔵平に向かう大又沢線と、西へ向かう水ノ木線(浅瀬金山線)の二路線があった。他にも一つの支線や作業軌道があった。
大又沢線が昭和9年(1934年)~浅瀬~地蔵平の7230m
水ノ木線が昭和13年(1938年)~浅瀬~水ノ木の7899m


現在、丹沢湖西端のキャンプ場から少し歩いた浅瀬に数軒の集落があって、そこから西には人家は一軒もないが、この浅瀬集落が軌道の起点です。
昭和の林道最盛期、大又沢線の終着点だった地蔵平には大正初期から昭和中期に200戸を超える人口があり、三保小学校の分校もあった。
水ノ木線の終点、水ノ木にも集落があった。今は両村とも廃村だが、山林で労働に従事する人たちの集落だったのだろう。

大又沢は世附川の支流だが、軌道の敷設年度と集落の戸数からして大又沢線が本線のようにも思われる。
私が歩いているのは世附川に沿っている水ノ木線です。
奥丹沢の地名、世附地区は広く、丹沢湖の西から県境までは殆どが世附です。
古来は原生林だった。表丹沢の木々を最初に伐採したのは平安時代から山北駅の南にいた河村氏という南朝方の豪族だった。
下写真は河村城。何やら発掘してた。かなり前の取材時の写真です。


南朝方の河村氏が、吉野を脱出した後醍醐天皇を都夫良野辺りまで落としたとか、世附のどっかの峠に後醍醐天皇の御陵があるとかのトンでも伝説があるがそれは今回の本題ではないので省略します。後年、北条氏が小田原に巨大城郭を築こうとしたら表丹沢にはいい木がなかったので、昭和まで集落のあった世附の最も奥にある水ノ木と、途中の浅瀬橋から分かれて北にある地蔵平が北条氏の木材供給基地になった。
北条氏の山奉行配下は切り倒した原木を川に浮かべ、鉄砲出しという荒っぽいやり方で酒匂川まで押し長し、そこで筏に組まれて小田原まで運ばれた。
鉄砲出しとは沢を堰き止めて水を貯め、原木を浮かべてから堰を切って一気に押し出す手法です。


江戸時代には小田原藩領になり、藩は森林を保護する。欅(ケヤキ)、栗、杉、栂(ツガ)、樅(モミ)、榧(カヤ)の伐採がご禁制になる。
明治になったら全丹沢山が帝室御料林になった。皇室所有の森林です。官林ともいう。水ノ木と地蔵平に帝室林野局の出張所が置かれ、そこに番人が常駐して後年の集落の基盤となる。
帝室林野局は丹沢湖畔の林道起点の浅瀬から地蔵平、水ノ木のラインに沿って、伐採、植林、炭焼きを行い、現在の各方面への林道、狭い峠道には当時の動力源である馬の往来が増えた。
昭和9年(1934年)、浅瀬から地蔵平、水ノ木に至る道に軌道が敷設され、馬がトロッコを引いて登り、下りは伐採された木材や炭を積んでブレーキだけで下ったのが世附森林鉄道です。
昭和17年(1942年)にはガソリン機関車が登場する。

森林鉄道(軌道)は、国内生産木材が輸入木材に取って代わられるまでは日本全国の山々にあり、本線から分かれた支線が枝のように伸びていた。
中には地図にも載らず、地元で知る人ぞ知るといった軌道もある。
軌道は山岳地帯に敷設するのと、伐採された木材を有効に搬出する為、軌間が狭く、カーブが急曲線です。
原則は木材と作業員の運搬だが、山の奥に作業員家族の小集落があるので、小さい客車で客扱いを行った路線もあった。そういう人たちからは運賃を取らなかったんじゃないだろうか。
現在、浅瀬のゲート付近に民家があって、そこが軌道の起点だが、ゲートを入って歩いた路はやや下り坂になるが、右側に平坦で細長い区画が続いている。この細い区画jに軌道が敷かれ、斜めになっているのは浅瀬貯木場の傾斜土場の名残なんです。積んできた木材を斜面から転がしたんでしょう。

浅瀬橋です。
橋を渡ったところが軌道の分岐点です。右折すると地蔵平まで行く大又沢線、左折すると水ノ木線。
この浅瀬橋道路橋の脇に、森林軌道の橋台が残っているのだ。


E381AEE6A98BE58FB0.jpg)
里見橋台ほどの重厚さは感じられなかったが、私の思い入れの差かもしれない。




この先、川を眺めながら歩き、冒頭の崩落現場で引き返したのだが、この先のガレた林道を進むと、芦沢橋という橋で世附川を左岸から右岸へ渡ると欄干の先に石積みの橋脚基礎があるそうです。せめてそこまでは行きたかったのだが。。。
更にその先には湯の沢橋、山百合橋、広河原橋、幾つかの橋を渡るのだが、いずれも傍らに森林軌道の橋台があったり、森林軌道橋台が林道の橋梁を支えるのに再利用されてたりするという。
もっと先には水ノ木線のスイッチバック跡があるというから凄い。でも現役時代の軌道はスイッチバックの長さが車輛の3輛分しかなかったそうです。

地蔵平に向かう大又沢線より世附川に沿った水ノ木線の方が、世附川を数回渡ったりするので橋台があり、石垣で土崩れを止めた軌道の築堤があったり、スイッチバックがあったりで、散策ポイントが多いようですね。


今回の散策はちょっと距離が短く残念に終わりました。
湖畔の土産門店で一服しながら、林鉄の資料、写真がないか物色した。
でもなかった。平日なので客は誰もいず、店でヒマそうにしてたオバちゃんにブシツケな質問を。。。
「世附に電車、走ってたの?」
「???」
はぁ?と言った表情でしたね。言った後で、こりゃぁ質問の仕方をマズったかなぁと思った。でも訂正しなかった。
「で、でんしゃ?」
「電車というか線路」
「いやぁ、聞いたことないわぁ。谷峨の辺りから延びてたのかなぁ」
谷峨とは御殿場線の駅です。
「木材を運んでたって聞いたんだけど」
「いやぁわかんないワ。不勉強でゴメンねぇ」
後日、これまた平日に厚木市図書館で資料を漁ってたら、①丹沢今昔、②丹沢夜話を発見した。知られざる丹沢の昔話が満載です。
まず、①をコピーしてたら女性職員から声がかかった。
「あ、あの・・・申請書を出していただきましたか?」
「申請書?何だそれ?そんなん出してないけど」
「お手数ですがこちらにご記入をお願いします」
職員さんは私に事務的な応対で、わら半紙の記入表と鉛筆を渡した。私に指示してすぐ書籍を検索する画面に向かってそれきりこっちを見ない。
めんどうくせぇなと思いながら、申請書に日付、私の名前、冊子名と複写した頁を記入しました。複写して冊子を棚に戻して更に物色してたらもう1冊、②を見つけたので、今度は自分から2回めの申請書を書いて、「アイよ~、もう一冊。。。」って声掛けしたら、
職員さんは何だかソワソワしてた。この人まだいたのかってな怖々した表情だった。



神奈川県内で、丹沢で、唯一の森林鉄道だった世附森林軌道は、二路線とも昭和41年(1966年)頃には廃止され、軌道は完全撤去されトラックに代わった。それは外国材輸入の普及で国内生産の林業の採算性が悪くなったのもある。
自動車の普及もあり、軌道は林道に代わる。


果たして冬場、再訪が適うか。未だ見ぬ芹沢橋、湯の沢橋、山百合橋辺りまで行けるかどうか。。。
スイッチバック辺りの河原には錆びたレールが放置されてるそうです。だがその辺りまではホントの山歩きなので軽装では無理かも知れない。森林鉄道の廃線は林道になってるならまだしも、一般の廃鉄と違って軌道跡の殆どが山林に埋没してしまい危険度が高いのです。
無理をしない程度に、冬場に行けたら行ってみようと思っていますが。。。
林道が崩落してるっ!!

う~ん、これは無理かな。
コンクリの擁壁幅は30cmあるかどうか。その上を歩けるだろうか。
左を見下ろしたら世附川の河原まで数メートルあるぞ。


風も強いし。今日は断念するか。
止めたっ!!
撤退する勇気を選択しました。取って返した。
案外と短い散策だった。ここまで見つけた遺構は一か所だけだった。
西丹沢の林道にいます。(正式には県道)
くるまを世附キャンプ場に停めて徒歩で来ました。
確かにこの林道の入口、浅瀬という地には、車止めのゲートが設置されていたんです。

ゲートを見ると、
『事故多発の為、自転車通行禁止』・・・
・・・これなら自転車はNGだが徒歩ならOKなのかと勝手に思ったのが、もう1枚貼り紙があって、
『この先、災害により林道が崩壊しています。新たな崩壊や崩壊箇所が拡大する恐れがあり、非常に危険なため、関係者以外の入林および林道通行を禁止します。』
2010年9月に発生した台風9号の土砂崩れの影響で林道がズタズタに崩壊したそうです。台風9号は、船山温泉裏手の山を崩してクレソン畑を全滅させ、大森山の木々を崩落させ、船山川を荒涼と化した雨台風でした。
この散策は2013年6月だったのですが、その時点で、丹沢湖の西、浅瀬より先は自動車はもちろん、歩行者も含め全面通行止めとなっています。
でも私は散策の帰途、地元関係者の軽トラに追い抜かれた。それと崩落現場に工事重機があったので、工事関係者は入っています。

私が散策した林道は丹沢湖に流れる世附川を遡るルート。正式名は神奈川県道・山梨県道729号山北山中湖線という長ったらしい名前で、簡単に言うと丹沢湖と山中湖を結ぶ一般県道の筈なのだが、県境区間は通り抜けできない。
事実上は神奈川県と山梨県で別個に存在してクローズしている。

この林道に、昭和9年(1934年)~昭和41年(1966年)の約30年間、世附森林鉄道(軌道)が走っていた。
西丹沢を流れる世附川沿いに敷設された木材運搬用の森林鉄道で、浅瀬橋で二つに分岐する。北の地蔵平に向かう大又沢線と、西へ向かう水ノ木線(浅瀬金山線)の二路線があった。他にも一つの支線や作業軌道があった。
大又沢線が昭和9年(1934年)~浅瀬~地蔵平の7230m
水ノ木線が昭和13年(1938年)~浅瀬~水ノ木の7899m


現在、丹沢湖西端のキャンプ場から少し歩いた浅瀬に数軒の集落があって、そこから西には人家は一軒もないが、この浅瀬集落が軌道の起点です。
昭和の林道最盛期、大又沢線の終着点だった地蔵平には大正初期から昭和中期に200戸を超える人口があり、三保小学校の分校もあった。
水ノ木線の終点、水ノ木にも集落があった。今は両村とも廃村だが、山林で労働に従事する人たちの集落だったのだろう。

大又沢は世附川の支流だが、軌道の敷設年度と集落の戸数からして大又沢線が本線のようにも思われる。
私が歩いているのは世附川に沿っている水ノ木線です。
奥丹沢の地名、世附地区は広く、丹沢湖の西から県境までは殆どが世附です。
古来は原生林だった。表丹沢の木々を最初に伐採したのは平安時代から山北駅の南にいた河村氏という南朝方の豪族だった。
下写真は河村城。何やら発掘してた。かなり前の取材時の写真です。


南朝方の河村氏が、吉野を脱出した後醍醐天皇を都夫良野辺りまで落としたとか、世附のどっかの峠に後醍醐天皇の御陵があるとかのトンでも伝説があるがそれは今回の本題ではないので省略します。後年、北条氏が小田原に巨大城郭を築こうとしたら表丹沢にはいい木がなかったので、昭和まで集落のあった世附の最も奥にある水ノ木と、途中の浅瀬橋から分かれて北にある地蔵平が北条氏の木材供給基地になった。
北条氏の山奉行配下は切り倒した原木を川に浮かべ、鉄砲出しという荒っぽいやり方で酒匂川まで押し長し、そこで筏に組まれて小田原まで運ばれた。
鉄砲出しとは沢を堰き止めて水を貯め、原木を浮かべてから堰を切って一気に押し出す手法です。


江戸時代には小田原藩領になり、藩は森林を保護する。欅(ケヤキ)、栗、杉、栂(ツガ)、樅(モミ)、榧(カヤ)の伐採がご禁制になる。
明治になったら全丹沢山が帝室御料林になった。皇室所有の森林です。官林ともいう。水ノ木と地蔵平に帝室林野局の出張所が置かれ、そこに番人が常駐して後年の集落の基盤となる。
帝室林野局は丹沢湖畔の林道起点の浅瀬から地蔵平、水ノ木のラインに沿って、伐採、植林、炭焼きを行い、現在の各方面への林道、狭い峠道には当時の動力源である馬の往来が増えた。
昭和9年(1934年)、浅瀬から地蔵平、水ノ木に至る道に軌道が敷設され、馬がトロッコを引いて登り、下りは伐採された木材や炭を積んでブレーキだけで下ったのが世附森林鉄道です。
昭和17年(1942年)にはガソリン機関車が登場する。

森林鉄道(軌道)は、国内生産木材が輸入木材に取って代わられるまでは日本全国の山々にあり、本線から分かれた支線が枝のように伸びていた。
中には地図にも載らず、地元で知る人ぞ知るといった軌道もある。
軌道は山岳地帯に敷設するのと、伐採された木材を有効に搬出する為、軌間が狭く、カーブが急曲線です。
原則は木材と作業員の運搬だが、山の奥に作業員家族の小集落があるので、小さい客車で客扱いを行った路線もあった。そういう人たちからは運賃を取らなかったんじゃないだろうか。
現在、浅瀬のゲート付近に民家があって、そこが軌道の起点だが、ゲートを入って歩いた路はやや下り坂になるが、右側に平坦で細長い区画が続いている。この細い区画jに軌道が敷かれ、斜めになっているのは浅瀬貯木場の傾斜土場の名残なんです。積んできた木材を斜面から転がしたんでしょう。

浅瀬橋です。
橋を渡ったところが軌道の分岐点です。右折すると地蔵平まで行く大又沢線、左折すると水ノ木線。
この浅瀬橋道路橋の脇に、森林軌道の橋台が残っているのだ。


E381AEE6A98BE58FB0.jpg)
里見橋台ほどの重厚さは感じられなかったが、私の思い入れの差かもしれない。




この先、川を眺めながら歩き、冒頭の崩落現場で引き返したのだが、この先のガレた林道を進むと、芦沢橋という橋で世附川を左岸から右岸へ渡ると欄干の先に石積みの橋脚基礎があるそうです。せめてそこまでは行きたかったのだが。。。
更にその先には湯の沢橋、山百合橋、広河原橋、幾つかの橋を渡るのだが、いずれも傍らに森林軌道の橋台があったり、森林軌道橋台が林道の橋梁を支えるのに再利用されてたりするという。
もっと先には水ノ木線のスイッチバック跡があるというから凄い。でも現役時代の軌道はスイッチバックの長さが車輛の3輛分しかなかったそうです。

地蔵平に向かう大又沢線より世附川に沿った水ノ木線の方が、世附川を数回渡ったりするので橋台があり、石垣で土崩れを止めた軌道の築堤があったり、スイッチバックがあったりで、散策ポイントが多いようですね。


今回の散策はちょっと距離が短く残念に終わりました。
湖畔の土産門店で一服しながら、林鉄の資料、写真がないか物色した。
でもなかった。平日なので客は誰もいず、店でヒマそうにしてたオバちゃんにブシツケな質問を。。。
「世附に電車、走ってたの?」
「???」
はぁ?と言った表情でしたね。言った後で、こりゃぁ質問の仕方をマズったかなぁと思った。でも訂正しなかった。
「で、でんしゃ?」
「電車というか線路」
「いやぁ、聞いたことないわぁ。谷峨の辺りから延びてたのかなぁ」
谷峨とは御殿場線の駅です。
「木材を運んでたって聞いたんだけど」
「いやぁわかんないワ。不勉強でゴメンねぇ」
後日、これまた平日に厚木市図書館で資料を漁ってたら、①丹沢今昔、②丹沢夜話を発見した。知られざる丹沢の昔話が満載です。
まず、①をコピーしてたら女性職員から声がかかった。
「あ、あの・・・申請書を出していただきましたか?」
「申請書?何だそれ?そんなん出してないけど」
「お手数ですがこちらにご記入をお願いします」
職員さんは私に事務的な応対で、わら半紙の記入表と鉛筆を渡した。私に指示してすぐ書籍を検索する画面に向かってそれきりこっちを見ない。
めんどうくせぇなと思いながら、申請書に日付、私の名前、冊子名と複写した頁を記入しました。複写して冊子を棚に戻して更に物色してたらもう1冊、②を見つけたので、今度は自分から2回めの申請書を書いて、「アイよ~、もう一冊。。。」って声掛けしたら、
職員さんは何だかソワソワしてた。この人まだいたのかってな怖々した表情だった。



神奈川県内で、丹沢で、唯一の森林鉄道だった世附森林軌道は、二路線とも昭和41年(1966年)頃には廃止され、軌道は完全撤去されトラックに代わった。それは外国材輸入の普及で国内生産の林業の採算性が悪くなったのもある。
自動車の普及もあり、軌道は林道に代わる。


果たして冬場、再訪が適うか。未だ見ぬ芹沢橋、湯の沢橋、山百合橋辺りまで行けるかどうか。。。
スイッチバック辺りの河原には錆びたレールが放置されてるそうです。だがその辺りまではホントの山歩きなので軽装では無理かも知れない。森林鉄道の廃線は林道になってるならまだしも、一般の廃鉄と違って軌道跡の殆どが山林に埋没してしまい危険度が高いのです。
無理をしない程度に、冬場に行けたら行ってみようと思っていますが。。。
2013-07-09 07:09
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街角のトロッコ [廃線]

時は明治、その路面電車は、上毛馬車鉄道、群馬馬車鉄道、利根軌道、吾妻軌道、東武鉄道といった幾つかの鉄道会社に電力会社が絡むのだが、その変遷は本編の主題ではないので省略します。
路面電車は駅前を出てから、八島町、新町交番前、大手町、田町一丁目、二丁目、三丁目、九蔵町・・・渋川から伊香保まで結んでいた。昭和28年6月30日に廃止される。
「鳥久」は新町(あらまち)にある。おそらく距離的には新町交番前~大手町の間と推測されるが、この辺りのF石材店に、間口から奥に向かって、軌間の狭いレールが敷設されている。

前から気になってた。上州を去る2週間前の朝、そこに立ち止まってじ~っと見つめてたら奥に家人がいた。女性です。向こうから挨拶された。
「こんにちは」
「どーもこんにちは。こりゃなんです?まさかここに電車でも走ってたの?」
もちろん私はこれが電車のレールではなく、簡易軌道トロッコのレールだとは察しはついている。素人のフリをしてわざとそう質問したの。
「いいえ、これはですね・・・」
石材を運んだトロッコのレールだという。手押しです。家人の女性は朝の回転準備中に説明してくれた。
「今でも使ってるの?」
「今は使ってません。大正の頃までは使ってました。私も使ってるのを見たことはないんですけど」

フォークリフトが無かった時代、老舗の個人商店、酒屋、蔵元で、奥の倉庫から店頭に酒樽を運び出す際、トロッコが使われた店がある。
酒樽だけではなく、デカい味噌樽、醤油樽、米、LPガス、灯油とか。昔で言う萬商店。こういう昔ながらの店は城下町に多いようです。
このトロッコ商店は奥に細長い。昔は間口の大きさで租税を納める基準があったという説があって、だから間口を小さくして鰻の寝床のように奥に細長~く店を作った。
そうなると必然的に奥には倉庫、蔵ができる。そっから店頭に運ぶ。重たい。そこでトロッコを敷こうというアイデアが浮かぶ。
酒や味噌だけではなく、奥に窯があってそこで焼きあがった陶器を搬送する際にトロッコを敷いたケースもあるそうです。
手押しで押せるのだろうか。路面、地面と違って、車輪がレールの上を動くのは摩擦抵抗が少ないんだと。
酒屋のディスカウントで台車に瓶ビールをワンケース積んで運んだ場合、案外と抵抗が大きく感じたことってありませんか。その台車は、車輪が接する床や地面の抵抗が意外とあるんです。トロッコは鉄の車輪対鉄のレールで摩擦抵抗が少なく、動かす側も少ない力で移動できるそうです。
決められた場所から決められた場所に運ぶ単一的、直線的な搬送に相応しい動線。しかも燃料は要らない。
緩いカーブがある場合もあるが、殆どが直線搬送で決められた場所に搬送する。
中にはトラバーサーといって、台車を横に移動させる装置付きの大きい蔵元もあるとか。
そういえば先日、TOKIO出演のバラエティ番組「ザ!鉄輪!DASH!」で、何処かの無人島にトロッコを敷いて石材を運んでいたのを見た。
あれは一体何をやろうとしているのかようワカランがジャン妻はゲラゲラ笑っていた。あの鉄路はTOKIOメンバーが作ったのではなくスタッフが敷設したんでしょうな。
無人島というシチュエーションで、そこに搬送する動力、燃料が無いという意味ではトロッコの発想そのものは悪くないのだが、TOKIOの無人島は、密林から浜辺まで段差、高低差があって悪戦苦闘していた。でもこの石材店のトロッコは個人商店の中で軌道は安定している。
やや傾斜をつける場合もあるらしい。このF石材店も、奥に向かってやや傾斜があるように見えるが、個人の敷地内なので測定はしていません。
家人の女性は大通りを指した。
「この通りは昔、電車が走ってたんですけど、電車がなくなって、道路拡張するまではもっと先まで伸びていたんですよ」
「レールはどっからか買ったんですか?」
「うん。おそらくそうですね」
よく大戦中も残ったものである。
戦時中は不要不急路線という指定でレールや鉄材は軍部に徴収された。戦後、復活せずそのまんま廃止になった鉄道も数知れない。このF石材店のトロッコレールは家の敷地内だから隠れて残されたんだと思う。


「写真、撮っていいスか?」
「どーぞどーぞ。マニアの方、結構、来ますよ。いつか復活したいっていう気持ちはあるんですけどねぇ」
と言って、家人の女性は店舗に消えてった。

こういうのをジャンル的に街角鉄道ともいうそうです。現役でも引退でもいいんだけど、街中、個人宅や商店の敷地内に敷設してる場合を言うんだって。
F石材店は創業弘化ニ年とあった。翌三年に孝明天皇が即位されている。
F石材店のレール、敷設距離、軌道幅は計ってないので不明です。
いつ敷設され、いつ廃止されたかもわからないが、「鳥久」の角を曲がり、ホテルドーミインの近くにあります。
見学者にはタイヘン好意的ですが、迷惑にならない程度に見てください。
2013-04-16 07:33
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里見軌道 [廃線]

余談ですが、日本全国でトンネルや橋の老朽化が着目されている。
東日本大震災や笹子トンネル崩落事故を機に、見識者たちは道路や橋等、インフラ整備を叫んでいる。問題なのが老朽化されたトンネルや橋の補修、整備である。
ジャン母は心配性で、私が船山温泉に行くって行ったら、
「トンネルはあるの?」
「第2東名を走るからトンネルぐらいあるよ」
「壁が落ちて来ないかしら」
「第2だよ。最近、出来たトンネル」
ホントは身延街道にもトンネルがあるけどそれは言わなかった。

アベノミクス政権は、民主党が進めた公共事業の見直し抑制がインフラを弱くしたと謳っているように見えるが、どうしても予算というものは、既にあるものの整備より、新しいものを作る花形的なものに流れがち。
TBS噂の東京マガジン噂の現場でも取り上げられていたのが横浜市の運河の橋脚の老朽化だった。クラック、錆び、橋脚の煉瓦の剥離等。だが予算の問題もあって担当者は「今すぐに橋落するものでは・・・」な~んて言ってたが落ちてからでは遅いだろう。
この吊り橋を見て、同じく東京マガジン噂の現場で取り上げられていた静岡県浜松市天竜区水窪というところの歩行者用吊り橋が、ケーブル固定部品断裂の為に捻じれるように壊れたニュースを思い出して嫌~な気分になったが、無事に対岸の室田発電所に渡ることができた。



室田発電所は現在は東電の管轄になっている。
発電所形式は水路式、運用は自流式というそうです。出力KWは1300KW、取水も放流も烏川。
敷地内に、「室田発電所100周年記念」の碑が立っていた。碑が建立されたのは昭和37年12月らしいが、碑には明治38年とあった。運転開始の日です。
「千古不易(センコフエキ)」と刻まれてあった。この意味は、「歳月は過ぎてもずっと変わらない」という意味が込められている。


だが、オカシイぞ?
また繰り返しますが、故宮脇俊三氏の監修によるJTBブックス「鉄道配線跡を歩くⅦ」89頁に、里見軌道は「烏川沿いの地域から産出される石材の搬出と、発電所建設のための資材輸送を目的・・・」となっている。
この部分については何回か触れたが、運行された軌道だけに関して幾つかの記録だと、大正4年(1915年)5月に免許を取得、大正10年(1921年)8月に工事が完成して運送を開始したとある。
書類上の開業日、廃止日は、工事竣工届が大正13年(1924年)4月に出され、昭和6年(1931年)7月が開業日、営業廃止は翌7年(1932年)とあった。
今回??って思ったのが東電さんの資料です。
それには「群馬県内では現在の東京電力(株)利根川水系烏川にある室田発電 所が明治38年11月より運転を開始しており・・・」
明治38年?
まだ軌道は免許出願もしてない頃です。昭和の廃止~大正を跨いで、約28年過去になる。これはオカシイ。
室田発電所の建設当初の資材搬送ではなく、後年の改修か何かによるものだろうか。
この辺りはとうとうわからなかった。

発電所敷地で碑を眺めてたら、国道側からバイクのエンジン音が聞こえてきた。
国道406号線(草津街道)からオフロードバイクが下って来たんです。ライダーは年齢不詳だた若い方かと思う。
「こんにちは~」
「お疲れぇ」
ライダーは吊り橋を渡って、烏川上流に向かっていった。
草をガサガサかきわける音が対岸のこっちまで聞こえてきた。



今、橋を渡って右折したライダーの行く先にあったという推定です。
だがそこから先は藪で道がわからず。私は引き返した。
ライダーは何処へ去ったのだろうか。
では「埼玉発大人の小探検」主催者、たからった氏が発見した謎の建造物は何処にあるのか?
気付かず通り過ぎてしまったので、i-Phoneで氏のBlogを検索したら、氏は往路の、水量管理堰堤の施設前で遭遇しているのがわかった。
i-Phoneの電池残量は40%を割っていたので、再度、吊り橋を渡り、省エネしながら来た道を戻った。

それだけ平坦で、カーヴもなく、人力の軌道に適しているということを裏付ける。
その施設の先に、ちょうどくるまが行き違える程度の幅があって、氏が発見した石積の建造物はその傍、河原に鎮座していた。
上から見下ろす。氏は何処からか河原に降り、橋脚のような石積の基礎部分に洞門のような構造を捉えている。
http://blogs.yahoo.co.jp/takaratta1152/32658380.html


河原は積雪が残っており、降りるのは危険と判断して、上からの撮影のみに留めました。
この建造物の正体はわからない。氏は安山岩を積み込む施設ではないかと推測されています。
さて、平知盛ではないが、見るべきものはすべて見たので、来た道を引き上げてタクシーを呼ばないと。
問題は例のゲートです。
もう途中で河原に降りて迂回したりしませんよ。誰何されようとゲートを突破します。




幸いにゲートには誰もいなかった。まだ作業員さんたちは施設の管理棟にいるんでしょう。
ゲートを乗り越えるもの気が引けたので、フェンス脇を横歩きし、途中からフェンスを乗り越えた。己の体が重かったです。




一般道に出るまで右を見たら水道水取水施設のようなものがあった。
この辺りから取水して市へ水道管を引いていたのではないだろうか。ということは今歩いた里見軌道運行線と、私が最初にハマった明治の3つの橋台たちは、軌道~水道管という1本のラインで繋がっていたともいえる。
こじつけみたいだが、里見軌道は廃線だが、水道管の廃管とそれを渡した橋台も廃線(管?)といっていいのではないか。


先刻のタクシー領収書を見て営業所に電話。
「9時過ぎに安中榛名駅からタクシーを利用したんですが、帰りもてもらうことになっています。運転手は駅前で客待ちしていたTさん」
「待ち合わせの場所とかは運転手もわかっているんですね?」
「ハイ。降りた場所は安榛トンネルを出て下って一般道に合流した辺りです」
20分くらい待ちましたかね。その間、道路の脇にボーッと突っ立ってたんだけど、走るドライバーたちは私を見て一旦は原則するんだけど、胡散臭気に見てすぐさまスピードを上げて走ってった。
安中方面から、往路でも乗ったタクシー運ちゃんが来たのは10:55くらいだった。

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「待ちましたか」
「うん。ちょっとね」
でも大丈夫。11:11のあさまには充分間に合います。





上州電気鉄道未成線~里見橋台と続いた廃線散策がようやく終わろうとしている。

妙な自己満足感があったが、廃線探訪というジャンルはもうこの先、ないかも知れない。
余談ですがこの店、私はカウンターに一人でいたのだが、背後のレジ辺りに3人の女性スタッフがいてまぁ私語の多いこと。
小声で喋ってるつもりが私ん耳に丸聞こえで苦笑しましたよ。
上州にいた1年、私はこの橋台たちに鉄路の夢を見た。
でも、そうじゃなかった。
そうじゃなかったけど、鉄路も水道も同じ”線”ラインです。廃線跡には違いないでしょう。



上州の地に惹かれ、拘ったのは、食文化や飲み屋、人との出逢いはもちろんですが、自然、城塞、そしてこの三橋台の存在も大きかったのです。
3月末の某日、この橋台たちにお別れをしてきました。
2013-04-05 06:47
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里見軌道 [廃線]

烏川上流で運行していた里見軌道は、埼玉発大人の小探検の管理人、たからった氏(以下、略して氏)が2010年の1月末に完全走破されています。氏は自転車で走破されたようですね。くるまは入れないんです。
氏からも前の橋台記事にコメントを頂いたのだが、氏のレポには何かアヤしい建造物もあった。
(私の記事)http://funayama-shika-2.blog.so-net.ne.jp/archive/c2303572422-1
(氏のレポ)http://blogs.yahoo.co.jp/takaratta1152/32633362.html
昭和初期に運行していた里見軌道は、今も残る橋台たちに沿って走る本街道、くだもの街道~草津街道の上流、烏川を渡河して草津方面へ左折するところ(上里見)を直進する。
上里見からは既に軌道跡なのだが、その先、保古里から廃線跡と伝わる林道に入ってすぐにゲートがあって一般車は入れないのである。
冒頭のたからった氏は自転車で走破されている。私は自転車なんて持ってないので新幹線で行きました。安中榛名駅で降りてタクシーで保古里まで行き、林道を歩くことにした。
あさま507号8:51発は120%強の超満員だった。
デッキの扉側に身体を押し付けるようにして立った。車窓から旧榛名町の風景が見える。安中アルプスが見える。秋間峠、雉ヶ尾峠も。
安中榛名駅にあっさり8:59に着いた。
降りた客は20人くらい。ゴルフバックを持った人はローズベイカントリークラブに行くのだろうか。8番ホールを廻ったら例の碑を見てくれないかな。
http://funayama-shika-2.blog.so-net.ne.jp/2013-02-12


そういえば安中榛名駅は前Blogで載せたけど、乾いたタッチで批評したら地元に住む方からお叱りのコメントを頂きましたね。まさかその安中榛名駅で“降りる”とは思わなんだですよ。
駅前にタクシーが1台だけ停まっていた。乗りこんで地図を見せて、
「安榛トンネルを抜けて突き当り、この辺りまで走って欲しいんだけど」
「???」
保古里という地です。
何て読むのか。保古里は軌道の起点ではなく途中区間なんです。起点は昨日の記事に載せた春日神社のある上里見~保古里、約2kmも軌道跡です。その間は私も何回か走ったけど道路拡張されて面影は全くない。
中間地点の保古里までタクって、そこから烏川に沿って上流へ。軌道が建設資材を運んだと伝わる室田発電所まで行って来る予定。

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「お仕事ですか?」
仕事のわけない。こっちは閑人でしかない。
「川沿いの街道の調査です。その先、発電所の辺りまで行って来るんで」
「ああ発電所。県か市の方?」
「ええ。まぁ」
って私はかなりいい加減に答えた。土地ブローカーにでも見えたのだろうか。
問題は帰りです。
帰りの上り新幹線は安中榛名駅発11:11のあさま520号を過ぎると13:48になってしまう。
「帰りにまた来て欲しいんだけど。11:10の上りで引き上げるので」
「えっ?東京まで帰られるんですか。ではそれ間に合わなくても、こっから磯部駅までならそんなにかからないし、次の新幹線までのんびり待たれるか・・・」
言ってることがノンビリしている
安中榛名駅から磯部駅までって結構な距離ですよ。平日は連絡バスが走っているからそう答えたんだろうけど、実際は安中駅へ向かう方が近いのです。
「1日にどれくらい客乗せるの?」
安中榛名駅周辺にお住まいの方へ。これは率直に聞いただけで別に他意はないですからね。
「(新幹線)1本につき1人くらいですかねぇ。運転手は私だけじゃありませんけどねぇ。お客さんが降りた今の時間帯だとゴルフやられる方が多いですね。平日だと東京から来られた企業の方とか」
安榛トンネルを抜けて下ると一般道に合流した。
保古里という地です。バス停は一の橋。
そこから先、廃線跡の林道には残雪が残っていた。
数日前にまた降ったからな。こりゃぁ行けるかな。こっちは例によってダークスーツに革靴だからね。
「行けるところまで行きましょうか?」
「途中を写真に収めるのでここからは歩きます」
「では11時前くらいに来ます。早まるようでしたら連絡を」
領収書にお名前を書いてくれた。
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時刻は9時15分。
帰途は11時11分。散策時間は約2時間ないが片道2kmなのでなんとかなると思う。


故宮脇俊三氏の監修によるJTBブックス「鉄道配線跡を歩くⅦ」には「現在でも追跡可能なのは約2km」「保古里という所から烏川の上流に向かって進む細い道が・・・」廃線跡だという。
私は既に軌道跡に入っている。
日当たりによっては残雪があったり、全くなかったりが続く。


しばらく行くと、氏のレポの通り、この先落石あり通行できませんって感じのゲートがあるぞ。

何やら作業音がする。おそらくこの先は発電所か水道局関連の作業車しか通行できないのであろ。一般車は入れないのだ。
私は徒歩である。強行突破してもよかったのだが右に逸れた。
だが。。。
迂回したら河原に降りてしまい、しばらくすると道がなくなったんです。
![[たらーっ(汗)]](https://blog.ss-blog.jp/_images_e/163.gif)




こりゃ先の作業道に戻らないといかんなと思って登れそうな箇所を物色したが。
ないです。
道は左上に見える。
この斜面をよじ登りました。

気合で登りましたよ。途中、何回かズリ落ちそうになりましたね。積もった枯葉が滑るし、崩れるし、摑まった木が枯れ木でボキッと折れたり。
何とかはいずり上った。
氏もゲートを強行突破せず途中で逸れたらしいけど、自転車かついでどの辺りから道に戻ったんだろう。
この記事作成中にジャン妻が私の背後からPCを覗いたんだけど、こんな斜面をよじ登ったのかという白い目で眉をしかめてましたね。
軌道跡の道に戻った。
その先は平坦な道が続く。途中、凍結してたり、解凍されてベチャ泥になってたりしたが、快適な散策路ではある。
だがこの辺りはヤフー地図で見ると途中で道が消えていた。
林道は一般車も通れるから地図に載るが、作業道(林業関係者か、電気水道関係の車両、関係者しか入れない)は載らない時がある。
Blogの冠たる船山温泉前にも鉈取線という林道があってこれは地図に載っているが、枝分かれした作業道や、終点から先の作業道は載っていない。作業目的が終わったら自然に還さなくてはならないからです。




路を歩きながら100年も前の軌道のことを考えてみる。
安山岩や里見石を人力で搬送したらしいが、屈強の男どもが手押している光景を思い描く。
私が目指す室田発電所の資材を運搬したともいう。


路すがら幾つかの竪坑がある。下に(室田)発電所用導水路が埋まっていてそれらの工事にも携わったと伝わる。


歩いてて思ったのだが、なるほどこの廃線道は平坦でカーヴが少ない。手押しは充分可能かなと思えてきた。
途中、沢を渡る時、貯水槽があって、水道管が顔を出していた。おそらく下里美の橋台たちを渡っていたのもこういう管だったと推測されます。
まてよ?
水道管工事を三基の橋台が残る下里美まで延伸したのだろうか。里見軌道未成線と勘違いしたあの橋台たちは水道管を背負っていた筈だが、今、散策している地下にある導水路もそれと関係ないだろうか?


室田発電所~上里見までは手押しの軌道跡で、そこから下里美の橋台たちまでは軌道ではなく水道管。ものや時代が多少は違ってても、1本の線で繋がっていたと考えていいのではないか。


先刻、ゲートで作業していた作業員さん3名を載せたトラックが、私をゆっくり追い抜いていった。
特に誰何されなかったですね。東電さんの作業員か下請け業者さんだろうか。
さっきの作業員さんが私を追い抜いたってことは、帰りはあのゲートを抜けられるなって考えた。
私は横に避けたのだが、この辺りは若干、広くなっていた。もしかしたら線路の行き違い箇所だったってことはないだろうか。
右側に水路調整の堰堤が見えてくる。
こっち側にはそれを管理する棟があって、トラックと3人の作業員さんはこの先の堰と管理小屋にいた。保守点検作業だろうか。



その先は、軌道の延長上の先は積雪で埋まっており、右に逸れる小路があったんです。
ここまで来て、あっ??と気付いたのだが、迂闊にも、氏の発見した石積の巨大遺構に気付かずここまで来てしまったぞ。
しまったと思ったが、引き返して探すのも時間のロスなので、取り敢えずは軌道の終点らしい室田発電所(変電所?)まで歩こうかと。
その先は藪の間の未舗装の獣道だが、何者か歩いたようにしっかりした足場になっています。



しばらくすると、吊り橋が見えてきた。その先には室田発電所があって、この辺りが軌道の終点と伝わるのだが、この発電所と軌道の関係で新たな謎が浮かび上がってきた。
2013-04-04 07:20
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里見橋台の正体 [廃線]

これに里見軌道が紹介されていた。
利根川の支流、烏川上流の、上里見~保古里~現在の室田発電所辺りの4kmを人力で押していた。旧榛名町で、今は市に合併されている。
運行目的は安山岩、里見石の搬送。伝承では、対岸の湯殿山の下にある室田発電所の建設資材の搬送や、k軌道跡の地下にある地下坑の建設である。
作業員は乗車していたとは思うが、一般の旅客営業はしていなかった。

だがその全貌は謎に包まれている。
地元でも知られていない。合併前の里見村史、榛名町資料にある里見軌道の頁は僅かなもので、大正三年、軌道敷設特許願の頁に、「里見村ハ往古ヨリ里見石ト称スル石材ヲ産出シテ石量豊富殆ド無尽蔵ニシテ・・・」
大正四年、里見軌道路線実地調査複令には、「里見軌道ハ信越線飯塚駅前ニ起リ国有線ニ沿フテ烏川ヲ渡リ其ノ右岸ナル仮定県道上ヲ走ルコト約八哩ニシテ県道ヲ離レ専用軌道ヲ以テ進ムコト約三哩里見村ニ達スル延長十一哩軌間二呎六吋ノ軌道ナリ・・・」
二呎六吋は762mmの軌道幅。そして大正四年の里見軌道特許状の項、命令書第三条には、「原動力ハ人力トス・・・」
幾つかの史料から時系列で並べてみると、
大正3年(1914年)8月、 軌道敷設特許出願。
大正4年(1915年)5月、 敷設特許取得。
大正5年(1916年)11月、会社設立(里見軌道株式会社?)。
大正9年(1920年)2月、 上州石材設立(役員は兼務と推測される。実質の運営権はこの会社?)
大正10年(1921年)8月、軌道工事完成、資材運送を開始。
「鉄道配線跡を歩くⅦ」には、「書類上の開業日、廃止日は、実際の運行とは異なるものであったらしい」とあって、書類上の開業日は昭和6年(1931年)7月、営業廃止が翌7年(1932年)4月だという。
書類上での営業期間は僅か数ヶ月でしかない。町史とかなりのズレがある。開業届も廃止届も相当に遅れて出したのだろうか。
町史と「鉄道配線跡を歩くⅦ」の記述を合算すると、大正10年~昭和7年で、合計11年か12年の運行営業になる。
どれが本当なのだろう。
各方面の研究者によると、動力が人力、手押しだったのは間違いない。開業区間は4km程度なので、急な坂とか無ければ可能だろうか。
その里見軌道の起点、里見町の春日神社です。

私がこの里見軌道に着目したのは、烏川上流で稼働していた軌道ではなく、市内の里見という地にある三つの橋台です。
24年6月だったか、倉渕温泉の帰途、406号線から迂回しようとして里道に踏み込んだら號五第(第五号)橋台を発見したのが発端。
現在残る橋台は三つ。いずれも明治の建造物です。
號二第(第二号)明治43年5月




その道は轍の跡もあるので、軽自動車ならギリギリ入れそうな路幅だが、切り返す場所が全くなかった。私は麓に停めて徒歩で歩いた。夏場は木々が倒れてたりするので今は殆ど廃道状態です。
八幡霊園の駐車場に停めて、墓地の中を北に歩けばフェンス越しに見えます。
號五第(第五号)明治43年4月
號二第(第二号)から国道に戻って先の信号機を左折します。
九十九折のカーヴを上がると右手にあります。現在は片側しか残っていません。
付近は建売住宅地になっています。



號六第(第六号)明治42年5月




おそらく地元の果樹園を営む方の軽トラックしか走らない道ではないだろうか。
軽自動車ならギリギリ可です。
私は坂を上がったところのシャッター果樹園に停めて最後の見学をした。

この三橋台を線で結ぶと、起点予定地だった飯塚駅(現在の北高崎)や、接続駅の第二候補駅だった群馬八幡駅に結びつくので、ひょっとしてこの橋台は軌道の延伸、未成線かと思ったのである。
だがそうなると、烏川上流で稼働していた里見軌道の開業時期と、これら橋台の建造時期が合わないのです。
結論を言うと、どうもこの橋台のある辺りまでは軌道は延伸してなかったようです。
地元の人で3人ほど聞き取ったところ、水道管を載せた橋台という証言が2人いた。
「この辺りは農道だったの。土が崩れないようにする為のものでは?」 (五号橋台近くのオバさん)
「鉄道は伸びて来るって話はあったよ。でも誰も利用しないよここに敷いたってさぁ(笑)」 (地元のTさん)
「そういう話があって喜んだ人はいたの。でも中止になっちゃって」 (果樹園のオバさん)
伸びてくる、そういう話はあった、というお二人の証言は、上州電気鉄道未成線のような気がする。
http://funayama-shika.blog.so-net.ne.jp/2012-08-25-2
私の中では里見橋台と里見軌道は下の2記事で完結したつもりだったが・・・
http://funayama-shika.blog.so-net.ne.jp/2012-08-26
http://funayama-shika-2.blog.so-net.ne.jp/2013-01-22
・・・また引き戻された。
「埼玉発大人の小探検」管理人のたからった氏がコメントを下さった。氏は上流のホンモノの里見軌道跡を走破して紹介されています。
(氏の探検Blogです。http://blogs.yahoo.co.jp/takaratta1152)
それと、氏とは別に、私が市の図書館へ乗附城と別のネタを探しにいったら、最初に市の水道史という資料が目にとまったこと。
水道史?
里見橋台が水道管を渡らせた橋なら、その裏付けが取れるのではないか。
視点を変えて調べてみたら、おおよそこの橋台の正体がわかったのです。
市の市制前の人口は享和元年(1801年)に戸数1369戸、人口6516人だったのが、約70年後の明治4年(1873年)に人口20524人と3倍以上に激増し、もともと農業用水路兼飲料水だった水路が汚染され、飲料や炊飯に適しなくなってきたんだと。
水道管や水道施設を望む声が高まったのだが、富国強兵の当時は徴兵令のような軍部の強い公布や国の施行は共同役場が進めるが、水道敷設という地方自治体での事業だと予算が捻出できなかったそうです。各町内の独自性が強かった時代で、町が一つの自治体となったのは明治半ば近くなってからだとか。
それでも明治19年、人家が密集していた本町、連雀町、田町、鞘町、新町、三つの紺屋町、九蔵町他、計15の町で簡易水道の議がまとまり明治20年に着工、翌21年に竣工した。取水場所は飯塚村の長野堰支流新井堰というが何処だかよくわからない。
これらの建設費や維持費は15町も負担しているが、当時の市には総数で43も町があったのに給水が開始されたのはそのうち15町でしかない。他の町からも当然、水道敷設の要望もでてきた。
だが取水した長野堰は農業灌漑用水も兼ねてたらしく、降雨量によっては水門を閉めたり、修繕等による断水が度々あったそうです。困ったことに1ヶ月断水したことも。
市の城内に陸軍歩兵第十五聯隊が置かれたが、聯隊から腸チフスが発生して衛星上問題になった。水が悪くては聯隊を維持できない。県庁が前橋に置かれた上に、聯隊まで去ってしまっては街の存亡に関わる。
(県庁問題についてはこの項では触れません)
町に市制が施行され、もっと規模の大きい水道を建設できないか、人口が5万10万と増加しても給水できるような水源を探した。
新たな水源候補地は三箇所。
①群馬県片岡村大字清水観音山渓谷。(これは伊香保温泉近くの榛名山の水か。)
②碓井郡里美村大字上里見字上山町春日堰。(里見軌道と並行して流れる烏川)
③碓井郡磯部村大字中磯部村諏訪社裏手。(ちょっと場所がわからない。碓井川の上流だろうか。)
このうち②が採用される。烏川の上流です。これが春日堰といって、実際に運行されてた里見軌道の起点地、春日神社の隣にある。
そこの水を県の衛生課が採取したところ、水質良好で飲料に適するものと認定された。



資料には②の「烏川上流春日堰で取水し八幡村大字剣崎に送水す」とある。
この剣崎に送水とは導水管をもって浄水場に送水するの意で、送水先は剣崎浄水場とあった。
剣崎という地は今でもある。剣崎交差点近くにはヒロさんが大好きな納豆ピザ、納豆ドリアの店「多伊夢」があるのだがそれは余談。



剣崎浄水場は今でもある。県道を挟んで若田浄水場と二つあって、若田浄水場は二号橋台が残る八幡霊園に隣接しており、敷地内には市の水道記念館がある。なので当時の水道管が、現在も残る里見橋台を渡ってたのではないだろうか。
明治34年9月には、水源地でもあり、導水管が敷設される里見村の村長と仮契約を締結している。収用を要する土地は上中下の里見村から八幡村、豊岡村他が載っていた。
大きい縮尺地図で見ると、上里見村にある取水地の春日堰と、そのすぐ隣にある軌道起点跡の春日神社から烏川沿いに三橋台が残る東へなぞると、導水道ルートと里見軌道計画線が概ね重なるので、そっち方面のロマンになっちゃったというわけです。



一つだけ。問題の橋台についてですが、導水管築造物の項に、もしやこれではないか?というのがあった。
擁壁、溜井、土工延長、暗渠、サイフォン、トンネル、開渠、人孔、トンネル人孔、接合井、サイフォン接合井、排水土管布設、杭、取水場の石垣や木戸門や竹柵(フェンスのことか)とかいろいろあって、最後の方に、
河川横断架橋壱ヶ所、里道横断架橋六ヶ所とあった。
これが現在も残る第ニ号、五号、六号の橋台なのはほぼ間違いないと思われます。
上水道は明治43年に完成する。
橋台に刻まれた年月は明治42年か43年なので一致する。
現在は水道管は渡っていないが、號二第(第二号)橋台には切断されて断面をセメントで蓋された管の残骸が載っている。


資料には、現役当時の水道管の写真もあった。
ミニョコン(アマゾンに生息する超巨大ミミズのUMA)のような水道管が地を這っている。


先日、若田浄水場内の水道記念館に行ったのだが、残念ながら橋台の資料、写真の展示はなかった。年表が掲げてあって、明治43年に完成とだけあった。なので里見の三つの橋台たちは水道管を渡らせたものでほぼ間違いない。いっくら鉄道史を探してもみつからないわけです。


ではいつ取り外されたのか。市の人口増加の更なる過程で近代水道に整備拡張され、いつの日か明治の旧水道管は取り外され、橋台だけが残ったのでしょう。
私は水道管に鉄路の夢を思い描いていたのだが、まぁいい夢ではあった。では烏川上流で稼働していたホンモノの里見軌道跡ってのはどうなっているのだろうか。

2013-04-03 04:36
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里見橋台の謎 [廃線]


前Blogで紹介したこの橋台には、明治四十三年四月竣工、號五第(第五号、上1枚目写真)と、同じく、號二第(第二号、上2枚目写真)と刻まれている。
http://funayama-shika.blog.so-net.ne.jp/2012-08-26
近代遺産にも何も指定されていないが、明治時代の重厚な建造物なのは間違いない。
これが鉄道(軌道)のものではないかという説があった。ある方のHPに記載されていた。
もしこれが軌道のものなら、橋台の先に軌道敷が続いていたと想像されるが、現在は凄い藪です。
何という軌道名なのか。
故・宮脇俊三氏の監修によるJTBブックス「鉄道配線跡を歩くⅦ」には、ここ、上州榛名方面の未成線他で、上州電気鉄道と里見軌道がセットで紹介されていた。
基点が飯塚駅(現在の北高崎駅)か群馬八幡駅で伸びる方向はほぼ同じ。この二つの路線は、「全く関係なかったかというとそうでもないようで・・・」と濁して結んでいた。
この辺りにはそれ以外にも未成線、計画線が多く、西毛馬車鉄道、中野軌道、榛名電気軌道、他にもあったかも知れない。これらの敷設免許出願、目的は、里見石と安山岩の輸送や、烏川上流にある室田発電所の建設資材、導水路トンネルの資材運搬等だった。
烏川に沿って建設願望がワンサカあったようである。

運行実績としては、烏川上流、榛名町の上里見~室田発電所付近に運行されていた4kmの人車軌道が里見軌道です。軌間は762mm。書類上の開業は昭和6年(1931年)7月で、翌昭和7年に廃止。僅か1年に満たない運行期間も大きな謎になっている。
当初の起点は飯塚駅と呼ばれた現在の北高崎駅。上州電気鉄道と同じで方向も似ている。同じ方向に二つも認可されるものだろうか。
安山岩の運送が主目的だったが、安山岩を人力でどこまで運べるのだろうか。
ではこの橋台は、飯塚駅か群馬八幡駅まで予定されていた未成線なのか。
未成線の位置と概略一致はするんです。だが、橋台に銘打ってあった竣工日付は明治四十三年。


10数キロ上流で運行されていた里見軌道は前述の通り昭和になってからなので、大正を含めて20年の開きがある。
この差は何なのか?
先に號五第(第五号)橋台~群馬八幡の免許が失効しちゃったのだろうか。
里見軌道の履歴については前Blogをご参照を。號五第(第五号)橋台より東に號二第(第二号)橋台があって、その場所は群馬八幡寄り、八幡霊園の側に建っていた。フェンスで遮られているのだが、かつては霊園に行く近道だったのかも知れない。
その先、更に東に號一第(第一号)橋台か、第五号と第二号の間に二つの橋台があるか、あった筈ではないか。
明治まで100年の歳月は遠い。今、私が探せること、調べられることは、號五第(第五号)と號二第(第二号)橋台以外の残りの三つの橋台を探すこと。
せめて一つでも発見したい。春までに。時間がないのだ。
その時が来た。
里見町一帯は国道406号(くだもの街道~草津街道)に面して段丘が連続して連なっている。


號二第(第二号)橋台を発見した時もそうだったのだが、この丘を垂直に降りる農道や水路があれば、軌道跡はそこをオーバークロスしていたので、橋台はそこにあるという狙いです。


この橋の先は2012年夏には草ぼうぼうで通行止めで自重したところです。土砂が崩れた為らしい。


橋を渡る。
通行止めは解除されて、草木は枯れ、刈られ、枯葉が落ちてるその道はアスファルトではなく荒れたコンクリート路盤だった。








だがつづら折りのカーブを登って行くと、いつの間にか八幡霊園に出てしまった。橋台はなかった。
八幡霊園は段丘の頂から南に広がっている。
東には若田浄水場があって、県道10号が南北に走っていて、更に東の剣崎町は住宅地で、”號一第”(第一号)橋台が残存する可能性は低い。おそらく県道10号の拡張か浄水場が建設された時に消えたと推測されます。
ではここから西へ戻り、既に発見された號二第(第二号)橋台から號五第(第五号)橋台の間に、號三第(第三号)橋台、號四第(第四号)橋台がないか。これが最後のチャンスとばかりに探しに歩いた。
ここまで登って来た坂をまた下って戻るのも味気ないので、霊園、墓地に接する公園ともいえない広場を散歩しながら、號二第(第二号)橋台の方へ歩いた。


この光景だけだと、まるで雨曇子さんBlogみたいなお散歩日記。
霊園は段丘上に幾つもの区画で整備されていて、北の里見川に向いた面は藪に隠れた断崖で、枯れた芝生が急に落ちていて一直線に西に向かって伸びている。
あくまで想像ですが、もし、軌道の路盤があったのなら、この線上にあったのではないか。
その先に窪んだ広場があって、黒いフェンスで塞がれている。


フェンスの閉塞部に號二第(第二号)橋台がある筈です。あったあった。久しぶりだねぇ號二第(第二号)橋台さんよ。
フェンスから見下ろしたところ。

降りてみた。
この橋台はそれほど高くない。かつては使われた農道をオーバークロスしていたが、霊園ができたことで廃道になり、取り残されたのだと思う。



私は今回は霊園側から来たが、麓から號二第(第二号)橋台へ至る道は舗装されているようです。軽自動車でここまで来れなくもないがUターンできない。上がってきたらバックで麓まで下りることになる。
よ~く見るとこの坂は途中、分岐して、前述の蕎麦屋を挟んだもう一つの橋に出るんです。



国道406号を歩きながら、左手の丘に登る小道を探して歩いた。今回は徒歩です。群馬八幡駅からタクシーで前述の蕎麦屋「温石」まで来て、そこから徒歩で散策。そしたら、くるまだと見落としがちな小路が幾つかあった。
その一つの小道がこれ。


この細い道は公道なのか私道なのかわからない。軽自動車でも走行に厳しいかも。U字溝二枚分の幅しかないこの小道は目指す丘に登ってる。
右手に墓地があって、新興住宅地に入っていった。
そこを抜けたら・・・
なんだ、號五第(第五号)橋台に出てしまったじゃないか。



號五第(第五号)橋台は片側、西側しか残存していない。対面にあったであろう東側は近代的なコンクリートブロックで補強されている。
近隣の農家のオバちゃん曰く、「この道は農道を拡張したのよ」とのことです。走行台数は少ないが橋台の前をくるまが走る。大型車は無理だが、県道137号へのショートカットになっているのである。
私は片側しかない橋台に手を当てながら、
「お前の仲間が見つからないよ」
橋台は黙して語らない。
「悪いな。もう時間がない。今日、見つからなかったらもう最後かな」
冬場の日没は早い。
陽は中天からやや西にあった。里見段丘に遮られて寒かったので国道406号に下ったその時、アタマん中で閃光のように閃いたことがある。
私は今日まで號五第(第五号)橋台から東方の號二第(第二号)橋台を取材し、その残り、號一第(第一号)、號三第(第三号)、號四第(第四号)の橋台を探していたのだが・・・
號五第(第五号)から西方向に橋台はないのだろうか。
ふいに號五第(第五号)橋台が私に囁いたような気がしたのである。
「號六第(第六号)を探してごらんよ?」って。
まだ陽はある。
時刻は2時半だった。4時には薄暗くなる。3時半までが勝負。街道を西に歩いたら、これまた軽自動車がギリギリ入れる小道があった。私はこの道をこれまで住宅地の庭に入る私道だと思っていたのだが、民家の脇を丘に伸びていて、「この先、落石注意」の看板があった。



何だかいい雰囲気である。
その先に何か建造物が垂直に建っている。動悸がしてきた。




高いです。今までで最も高くそびえている。
では番号は?
號六第(第六号)橋台だった。


橋台の背後は雑木林、藪だが、心なしか築堤のように見えなくもない。
私は納得した。一、三、四は発見できなかったが、逆方向に六があったのである。
「ここにいたのかよ」
誰も応えない。しばしその辺りに佇んだ。

ちょび~っとだけ、妙な達成感に満たされた。
「六号さんよぉ、もうちょっと早く出逢いたかったぜ」




よしっ、散策を打ち切ることにしました。
この小道を抜けた県道の何処かでタクシーを呼ぼうかと。歩いてったら果樹園に出た。


店のオバちゃんは私を見て、
「くるまじゃないの?」
「うん。歩き」
「どっから歩いて来たの?」
「街道筋のお蕎麦さんから。気が付いたらここまで来ちゃったのよ」
「温石からここまで?よっくまぁ歩いたわねぇ。でも歩きだとウチの梨は無理かなぁ・・・」
商売を断念したオバちゃんの売ろうとした梨は里見梨といいます。瑞々しくて美味しいです。
タクシーを呼んで貰った。
待つ間に訊いてみた。號六第(第六号)橋台から出てきた小道を指し、デジカメを見せながら、
「そっから出てきたんだけど、あの先にこんな橋の石積みがあるね。」
「ああ、あれはね。昔、水道管を通した橋なのよ」
「水道管?」
前もある人が言っていた。この辺りは南総里見八犬伝の里見氏の発祥地で、それをジロジロ調べる過程で知り合ったTさん(男性、推定年齢60歳台)に八幡霊園側の”號二第”(第二号)橋台の橋台の写真を見せたら、
「昔、電車を走らせるって話はあったよ。板鼻ってところに橋の台があってさ。それがこっちに伸びてくるって。(※)でもこれって昔、水道管を渡らせたものだな・・・」
というのである。
Tさんと私は里見梨を食いながら談話したのだが、Tさんが更に言うには、「電車を走らせるって話はあったように思うよ。でも無理でしょここに線路を敷いたってさぁ。だって利用する人がいないもん」
(※)上州電気鉄道のこと。http://funayama-shika.blog.so-net.ne.jp/2012-08-25-2
この橋台には里見梨の看板がくっついている。↓

橋台の水道管橋は、軌道の免許廃止後の再利用ではないかと思ったのだが、果樹園のオバちゃんもハッキリ言っていた。「水道管の為に作ったものだよ。昔、この辺り、榛名の方からずーっと水を通す為の橋なの」というのである。
そうか。軌道の未成線じゃなかったのか。
確かに號二第(第二号)橋台には、水道管らしきものが断面を塞がれて載っているんです。


里見氏の伝承について語りだしたが、私は里見氏についてはそんなに知らないし今回は主題ではない。軌道と橋台の話に引き戻した。
「電車じゃなかったんだね」
「うん。でも、私はよそから越して来たんだけど、そういう計画はあって、電車が通るって聞いて喜んだ地元の人もいるらしいんだけど結局立ち消えて。でも今でもそん時の石垣が残ってるって・・・」
石垣?
これは初耳だな。軌道敷設か築堤の石垣か盛り土だろうか。
里見軌道の話題が尽き、タクシーが来る間、小栗上野介のネタや、この辺りの気候の話、群馬はええとこだよっていろいろ話した。
店内には上武大学の駅伝応援ポスターが貼ってあって、
「駅伝、見たけど、上武大学ってあの襷がつながるかどうかって注目された大学?」
「そうそう。繋がるかどうかってとこだけ注目されたけどねぇ」
「そこだけ盛り上がってたね」

果物の詰め合わせは重いので、梨のジャムを買いました。
私は里見軌道未成線がこの段丘の何処かを通るべく計画され、残る橋台もこの緑の丘に眠ってると思っていた。
號七第(第七号)橋台か、その先の橋台があるかどうかはわからない。確かに橋台は三つあったし他にも眠っているかもしれないが、それは烏川上流で稼働していた里見軌道と同じ路線ではなかったようです。
計画はあった。
だがそれは未成線で終わった。ここまでは伸びていなかった。




春までに、上流に稼働していた本当の里見軌道跡に行けるかどうかはわからない。これまでの橋台探しで充分だったようにも思う。
この丘の何処かに眠っている筈の、明治~大正~昭和~平成。。。100年も草に埋もれている鉄路の夢の跡の散策が終わろうとしている。
私は明治の水道管橋に鉄路の夢を見ていたのかもしれないが、いい夢だったと思います。明治の三橋台たちよ、いつまでも重厚な雄姿のままで建ってて欲しいです。
2013-01-22 07:29
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